
テレビドキュメンタリーの現場で20年以上活動し、数多くの社会派番組を手掛けてきた原義和さん。
約20年間、フリーランスのテレビディレクターとして活動。NHK・Eテレ『きらっといきる』『福島をずっと見ているTV』、TBS『報道特集』、RBC(琉球放送)、OTV(沖縄テレビ)などでドキュメンタリー番組を制作してきました。
愛知県名古屋市に生まれ、2005年に沖縄へ拠点を移した原さんは、これまでに劇場映画「夜明け前のうた~消された沖縄の障害者」、「豹変と沈黙~日記でたどる沖縄戦への道」を発表。
障害者の隔離制度や日本軍「慰安婦」問題といった、歴史の中で闇に埋もれ、「なかったこと」にされてきたような事実を丹念に掘り起こしてきました。
テレビ番組制作の「公共性」と映画製作における「自由な表現」。
二つの経験を行き来しながら、原さんがフリーランスとして武器にしてきたのは「時間をかけて向き合う」姿勢です。
沖縄の人々との交流、精神科医療との出会い、市民運動の現場で感じた問題意識。そうした積み重ねを通じて、これまで社会に問いを投げかけ続けてきました。
その視線の先には、沖縄、日本、中国をつなぐ歴史と沈黙の記憶があります。
社会の片隅に追いやられた声に耳を澄まし、社会のあり方を問い続ける映像作家としての歩みと覚悟をお聞きました。
映画制作への道のり
−−本日はよろしくお願いいたします。原さんは普段、自己紹介をされるとき、どのようなお話をされるのでしょうか?
自己紹介ですね。映像を作る仕事をしていて、フリーランスで活動しています。主にテレビのドキュメンタリー番組を20年ほど作ってきました。
その都度一本契約で、取材をしては企画書を書いてプロデューサーに提案し、GOサインが出れば番組になるという形で。
−−まさに「職人」のようですね。
そうですね。
そんなテレビディレクターとしての活動の延長線上に、初めて作った劇場映画「夜明け前のうた」があります。最初はテレビ番組として取材を進めていたものが、ご縁があって劇場映画として公開することになったんです。
−−テレビと映画では、制作のプロセスに大きな違いがあったのでしょうか?
違う面がたくさんあります。
テレビ番組は局として製作され発表されるものなので、僕個人の表現というよりは、テレビ局として作品化されていく。
プロデューサーなど様々な人の意見を反映させながら調整し、演出していくのがディレクターの仕事です。
しかし、映画、特に自主映画である「夜明け前のうた」は、僕がやりたいことをストレートに実現する。演出的に未熟であっても、「これが僕の表現だ」という方向を感じられた。その表現者として自由な領域に大きな魅力を感じたんです。
−−それが2作目「豹変と沈黙」、そして3作目への意欲に繋がっているのですね。
その通りです。2作目を撮り終えて、まず思ったのは「第3作を作りたい」ということ。
今回(2作目)は「戦後80年」という節目に公開を間に合わせたいという思いがあって、少し急いでしまって、僕の中では若干の消化不良があります。
だからこそ、次作はもっと自由に、より自分らしい表現に挑戦したいという気持ちが強いです。
映像との出会い:ミーハー気分から編集の奥深さ
−−元々テレビ業界に入られたきっかけは何だったのでしょうか?
僕が20代の頃、まだバブルの空気が残っていて、世の中が浮かれていた時代でした。
自分の進むべき道が分からず、人形劇団に入って芝居をしていた時期もあるなど、大人になっても自分探しをしていたような状態でしたね。
そんな中で、どちらかというと“軽い”気持ちでテレビの編集の仕事を始めたんです。
今思えば、「面白そう」というミーハー気分だったと言ってもよいと思います。
−−それが映像との最初の出会いだったのですね。
そうです。報道の編集の仕事で、1分のニュースの編集から始まって、「映像って、例えばパンのカットをどう編集で使うかということで、こんなにも意味づけが変わるんだ」と。
時間経過や位置関係の変化を表現したり、1つのカットに驚きや疑問や納得感を持たせたり。それにすっかりハマってしまって。
夜中まで残って、先輩たちの編集作品を見たりしていましたね。
−−その熱中ぶりが目に浮かびます。
でも、編集を始めて数年経ったころ、他人が撮ってきたものを編集するだけでなく、撮るところから自分でも映像を作りたいと思うようになりました。
それが制作の道に進んだきっかけです。
当時は仕事も多く、フリーランスとして様々な映像制作に携わることができました。
テレビ番組だけでなく博物館の展示映像や企業のPRビデオなど、何人かの監督の下で経験を積み、やがて演出も任されるようになりました。
社会課題との出会い:沖縄、そして精神科医療へ
−−いつ頃から社会課題、特に沖縄戦や日本軍「慰安婦」問題といった社会派ドキュメンタリーに興味を持たれたのでしょうか?
20~30代の頃はいわば自分探しをずっとやっていたような日々でしたから、自分の中で特定のテーマを持っていたわけではありません。
ただ、編集や演出の仕事を通して、映像表現の奥深さには夢中になっていましたね。
そんな中で30代半ばの頃、「自分は何をやりたいんだろう?このままクライアントワークを続けていくのが自分の人生なのかな?」と深く考えるようになりました。
また20代の頃から、一方で市民運動にも参加していたんです。沖縄の基地問題に関わっていて、辺野古の新基地建設に反対する小さな市民グループの事務局をやっていたこともあります。
友人と沖縄に旅行に行った際に、地元の市民運動の方々と出会ったことが市民運動のきっかけとなりました。
私は父が牧師で、熱心なクリスチャンホームで育ちました。
東京で通っていた教会も、青年部を中心に沖縄との繋がりが強い教会だったんです。
教会の関係でも何度か沖縄に行き、現地の教会の方々と基地問題や沖縄戦について学び合い、語り合いました。ですから、市民運動と教会の二つのチャンネルで、沖縄とは深く関わっていたんです。
ですから、映像表現においても「自分は何を表現したいのか」と考えたとき、沖縄との繋がりやそこで出会った人々との対話、そして基地問題への思いが根底にありました。辺野古に基地を作らせようとする国家の巨大な力にどう抗えるのかという視点がありました。
なぜ作らせてはいけないと思うのか、その根拠を自分なりに探っていたときに、「非暴力平和隊(Nonviolent Peaceforce)」の活動に出会ったんです。
−−具体的にどのような活動なのでしょうか?
それは、紛争地域に丸腰の国際チームが入り、人権活動家らを物理的に守ることで紛争を抑止しようといった非暴力の活動です。
当時、スリランカ内戦でLTTE(タミル・イーラム解放の虎)と政府軍が紛争状態にあった時期に、実際に現場で活動したこともある大畑豊さんという方と出会いました。
非暴力平和隊は、地元に入り込んで紛争を抑止すべく活動していました。当時、地域紛争や独裁国家での虐殺などを、より強大な武力を投じて解決するという、いわゆる「人道的介入」という言葉がよく使われていたんです。それとは全く違うアプローチで、丸腰の市民のグループがそこに入っていくことで紛争解決を目指すという理念で、それを実践的に挑戦している姿に大きな希望を感じ、「これこそ僕が映像で表現すべきテーマではないか」と強く思いました。
−−そして、実際にスリランカへ取材に行かれたのですか?
はい。しかし、それは今思えば無謀な挑戦だったと思います。現地の言葉も勉強していない、英語も怪しい私が、通訳兼ドライバーと行ったのですが、そこはドライバーさえも行きたがらない危険な地域でした。
チェックポイント(通過ゲート)ではライフルを持った兵士がギラギラした目で睨みつけている。「Uターンしよう」とドライバーに言ったら、「今Uターンしたら、撃たれます」と言われて、進むしかない状況でした。
−−想像を絶する経験ですね。
撮れるものは撮って帰ってきましたが、ニュース番組に持ち込んでも企画は通してもらえませんでした。
そんな時に、ある友人の牧師の紹介で、精神科の病院に見学に行く機会があったんです。
そこで初めて精神科の世界に足を踏み入れました。
そこで出会ったのは、統合失調症の人が多かったのですが、デイケアに通って日常生活を保っている人たちでした。
一般的には、話が通じなくて「おかしい」と見られてしまう人たちですが、そんな彼らが、一人ひとり時間をかけて話を聞くと、非常に人間味に溢れていて、豊かな個性を持っていて面白かった。
しかし、社会生活においては、彼らが何かをしようとしても受け入れてもらいにくいというか、コミュニケーション上の生きづらさがあり、居場所を求めても簡単ではないという状況がよく分かりました。
−−それが社会に対する問題意識に繋がったのですね。
そうです。
彼らにとって社会的な居場所は、ほとんどデイケアに限られているのですが、それは彼らが悪いのではなく、「社会の側に問題がある」ということです。
社会の側が、彼らの可能性を奪い、何かにチャレンジしようとしても簡単に切り捨てている。寛容ではない窮屈な社会状況がある一方で、彼らはすごく人間的な魅力を持っているのを感じて、何とかして映像にできないかと思いました。
最初は、撮影自体に難しさもありました。
カメラを嫌がる方も当然いらっしゃいますし、中には「テレビ妄想」といった症状の人もいました。要するに、テレビ画面で映っているアナウンサーは、自分のことを話していると思い込んでいるわけです。
私が撮影をしてその人がテレビに出ることになると、その妄想が現実になってしまうわけで、妄想を刺激してしまう可能性もある。非常にデリケートな取材だったと思います。
−−まさにドキュメンタリーの核心ですね。
それでも、半年ほどちょくちょく病院に通って取材をし、フジテレビの深夜のNONFIXというドキュメンタリー番組で放送することができました。
それがきっかけで、NHKEテレの『きらっといきる』やTBS『NEWS23』の企画など、障害者や難病などに関するドキュメンタリーを制作するようになりました。僕としては、自分で企画を立ち上げて、取材し、それをフリーランスとしてテレビ局に持ち込んで放送の形にするという道筋ができていったんです。
東京から沖縄へ:歴史と生活のリアル
−−その後、2005年には沖縄に移住されたそうですね。
いえ、既に沖縄に移住していました。正直、東京での暮らしは、満員電車や家賃の高さなど、生活しづらかったこともあり、以前から離れたい思いがありました。
それに加えて、20代から築いてきた沖縄の人たちとの人間関係や、沖縄戦への関心もあって既に通って取材をしていました。そのうち、通うよりも実際に住んで取材をした方が自分のやりたいことに近づけるのではないかと考え、移住しました。
−−原さんは名古屋市のご出身とのことですが、沖縄の暮らしは性に合いましたか?
いえ、性に合うということはないですね。
沖縄と日本の歴史は、そう簡単ではありません。
沖縄はかつて琉球という独立国であり、日本が武力で併合した歴史があります。
日本に組み込まれた結果、沖縄は難しい状況に追い込まれ、やがて沖縄戦という悲惨な地上戦を経験することになったと思っています。沖縄戦は、ありったけの地獄を集めたとも言われる凄惨なものです。沖縄では親族の誰かは、その沖縄戦で亡くなっています。戦争につながる基地・軍隊を拒否する意識も非常に強く、日本人(ヤマトンチュ)は“他者”であり、“侵略者”と言えます。
僕はその日本人(ヤマトンチュ)として沖縄に住んでいるわけで、難しい立ち位置だと思っています。
沖縄のおじい、おばあから沖縄戦の話を聞くとき、彼らから見れば僕はその日本人(ヤマトンチュ)です。
今も取材をしていると、お年寄りから「いつヤマト(本土)に帰るの?」と聞かれることがあります。僕は、出張で話を聞きに来ていると思われるんですね。
20年住んだところで、日本人と沖縄人の関係性は変わりませんし、僕にとって沖縄はやはり「アウェイ」であり続けると思います。東京にいる方が、気持ちが落ち着くことがよくあります。
沖縄戦や日本軍「慰安婦」問題、住民虐殺といったテーマは、日本人として僕が加害性を背負っている歴史の問題でもあります。
そして、沖縄のウチナーグチ(沖縄の言葉)を僕が話せないことも、取材の壁になります。
お年寄りはウチナーグチで話す方が楽であったりもするので、日本人である僕が日本語で話を聞くのは難しさや限界もあります。
制作の流儀:時間と覚悟
−−作品作りにおいて、取材対象者との向き合い方や、心掛けていることはありますか?
僕はフリーランスで、基本的に一人で取材を進めていますが、テレビ局員のような潤沢な資金も無ければ、クルーを組むことも難しいです。
例えばNHKで仕事をすると、東京大学卒の優秀なディレクターやプロデューサーばかりなのですが、そんな彼らと伍していかなければなりません。
そのための僕の“武器”は、「時間をかけること」だと思っています。
−−時間をかけることがドキュメンタリーにおいて有利、と。
そうです。局員の彼らが1週間でやるなら、僕は3週間。1ヶ月なら3ヶ月。ドキュメンタリーは時間をかければかけるほど有利になります。
取材対象者の心の変化、予期せぬ出来事、新しい発見。時間をかけた分だけ、いろんな出会いが増え、チャンスが広がります。だから、時間はかけられるだけかける。
その分、生活は苦しいですが(苦笑)。
お金儲けを第一に考えていたらできないですよ。
−−時間をかけることで、良い映像が撮れる確率が高まるということですね。
そうです。テレビの場合、強い映像が撮れていれば、編集上のテクニックはそれほど必要ではなく、その1カットを見せるだけで観る人を惹きつけられる。
時間をかければかけるほど、そうした「強い絵」が撮れるチャンスが増えるんです。
だから、僕は正直、「撮れるまでやる」という気持ちで取材しています。ルーティンがある局員はそうはいかないと思いますが、例えば局員のディレクターが毎月のように番組を出しているとしたら、僕は年にせいぜい2、3本です。それだけ時間をかけています。
−−制作過程での苦労話があればお聞かせください。
私にとって、第2作目の劇場映画となる「豹変と沈黙」は、「戦後80年のうちに公開したい」という縛りを自分に課してしまってしました。
ですから、「時間をかける」というこれまでのやり方を変えてしまった面があります。もっと時間をかけていれば、さらに良いものができたはずだと思います。
また、「戦後80年の今年」という縛りのため、宣伝の時間も十分に取れず、劇場公開に向けた準備もバタバタでした。知名度もないのに、本当に残念なことをしています。
劇場公開となると、DCP(デジタルシネマパッケージ)化や5.1chサラウンド制作など、私が普段やっているテレビ番組よりずっとお金がかかります。
例えば、作中でカラスが飛んでいくシーンがありますが、カラスが奥から飛んできて右後ろに抜けていくのに合わせ、カラスの羽音が奥から右後ろへ移るように音響を作っているんです。
お金がないと言いながらも、せっかくの5.1chサラウンドを生かしたいので、そういうことをしているとどんどん金銭的には厳しくなっていく。個人で劇場公開映画を作るのは本当に大変です。
−−こだわりを貫くのはやはり難しいんですね。
そうですね。でも、この年齢になってようやく自分のやるべきことや、やりたいことが少しずつ分かってきたという気もしています。
また、この先どれだけ僕に映画を製作できるチャンスがあるか分からないということも自覚していて、次は『最後かもしれない』という覚悟で取り組まないといけないと考えています。
−−撮影のスタイルについてお伺いします。監督はカメラを回す際に、どのようなポリシーをお持ちですか?
私は「あなたを撮りたいのだ」という意思を相手に明確に伝える、というのがポリシーですね。
小型カメラでさりげなく撮るのではなく、カメラを構えて「私はあなたを撮っています」と分かってもらい、覚悟して話してもらう方が、インタビューされる人との関係を良好に作れると思っています。後々のトラブルも少ないかもしれません。
もちろん、相手が話しづらい時などには、カメラを置くなどの配慮はしているつもりです。
本当はお金があれば、カメラマンを頼んで、私は取材に集中する方が良いと思います。
カメラマンが別にいれば、遠くから望遠気味に相手を撮ったり、バックショットで撮ったり、ロングでその場の雰囲気を撮ったり、色々な工夫ができます。私が一人で撮ると、どうしても私のいる場所からしか撮れない。
−−3作目に向けては、チームでの制作も考えていらっしゃいますか?
テレビの仕事では、チームでやる時もありますし、中継などはひとりではできません。
映画に関しても、お金があればチームでやりたいですね。あるいは、撮影をチームでやるということだけでなく、製作全体を通して、例えば仕上げの編集作業を中国の人とコラボして行うなど、「合作」的なことをしたいと考えています。
撮影に関しては、50歳を過ぎると老眼が進むので、ピンボケに悩まされることも多くて(苦笑)。
大事な場面でテンションが上がると、ピントを合わせるのがおろそかになりがちなんです。
後から映像を見ると、「一番良いところでピントが合っていないじゃないか!」なんてこともあります(笑)。
−−それはまさに現場の怖さですね。
音声を録り損ねたこともありましたが、最悪です。ひとりで撮っていると、この年齢になっても焦ることがよくあり、いろいろ失敗をしています。
一番大変だったのは、出張中にハードディスクを落としてアクセスできなくなった時ですね。
プロデューサー試写の直前だったので、もうパニックでした。
すぐにデータ復旧会社に駆け込んで対処をお願いしましたが、半分くらいのデータしか復旧できず、その復旧に80万円以上かかった上に、その半分のデータで番組を作らざるを得なかった。本当に恐ろしい経験です。
「共生」への問い:沈黙の歴史と向き合う
−−原監督のこれまでの作品は、「共生」という私たちのテーマとも非常に近いものを感じます。監督が考える「共生」とは、どのような状態でしょうか?また、そのためには何が必要だとお考えですか?
難しいことは分かりませんが、僕の取材経験で言えば、共生の逆にあるのが「排除」です。
精神障害のある人の場合などは分かりやすいですよね。例えば、昔は「私宅監置」という制度があって、地域でトラブルになっている精神障害のある人を狭い小屋などに隔離するのですが、何年も地域社会から物理的に排除されるわけです。中には、死ぬまで隔離された人もいます。死ぬことでしか、そこを出られない。日本はそれを法律に基づく「社会制度」として、当然のこととしてやっていた。
大声で叫んだりして、地域の安寧を壊している人だからやむを得ないとして、隔離し、排除し、社会の一員として認めないわけです。地域のお祭りがあっても出さない、参加させない。本人は悪気があってやっているのではなく、病気の症状で混乱しているわけだけれど。
トラブルを一番楽な方法、完全に排除する形で解決を図っていた。
僕たちは、あまり自覚していないだけで、共生とは逆の世界を社会の枠組みとして作ってきたし、その中でずっと生きてきたし、それは今も続いている。
ではどうすればいいか。
トラブルを起こす人を社会から遠ざけて排除するのは、誰にとっても「平穏」を保つには一番楽な選択です。しかし、誰かの人生を潰してしまうことになる。
だから、僕たち一人ひとりが問われているし、どうすればいいかを周りの人たちを含めて皆で悩み続けること、確かな答えなどない中で、一緒になってもがくしかないんだろうと思います。
当時に、善意だけでなく、「制度の問題」が大きいです。医療福祉などの関係者は制度に沿って動きますし、その枠で考えるため、間違った制度があってもそれが利用されやすい。
ですから、「誰も排除されない」よう、あらかじめ制度設計しておくことが社会的には重要だと思います。
−−制度の変革が必要だということですね。
はい。現行の精神保健制度では、国連から廃止を勧告されているものがたくさんあります。
法律が変わることによって、状況は変わる。昨年7月、優生保護法に基づく断種や堕胎などの手術に対する最高裁の違憲判決が出て、補償問題が動き出しました。10月から検証作業が始まるのですが、補償法に検証が盛り込まれたからです。
しかし、強制入院等の問題は、いまだに業界団体の利権や圧力があり、制度がなかなか変わらない現実があります。
そこには市民の意識、関心がどれだけ集まるかという点も重要です。
マイノリティの問題は「遠い誰かの問題」と思われがちですが、実は自分にも繋がっていることに気づくと、一気に自分の問題になる。実は私たち一人ひとりの身近な問題であることを伝えていけないと思います。
−−そのためのメディアの役割も大きいですね。
そうです。メディアは、問題提起だけでなく、意見の違う者同士が課題を共有し、対話する場を作り、世に出していくべきではないかと思います。
異なるアイデンティティを持つ者同士が、歴史的な経緯も踏まえて、互いを理解し、尊厳を認め合い、その人らしくいられるかどうか。理想論に聞こえるかもしれませんが、それぞれの場で地道な対話を続けることにしか答えはないと思います。
どちらか一方が有利な立場に立ち、もう一方が生きづらさを強いられている状況では共生とは言えません。
障害者をはじめマイノリティは声を上げにくいからこそ、メディアも含め社会的に対話の場を作り出すことが必要だと思います。メディアにはいろんな可能性がまだまだ秘められていると思います。

今後のビジョン:3作目、そして「沈黙」への問い
−−最後に、今後のビジョン、特に第3作についてお聞かせください。プライベートな目標などもあればぜひ。
30代の私は、今ほど社会の物事をよく理解できていなかったし、自分の進むべき道もあまり見えていませんでした。
今年56歳になって、ようやく自分のやるべきことや、やりたいことが少しずつ分かってきたような気がしています。まだ、未熟な点が多いのも実情ですが、最近は自分が本当にやりたいことを一つずつ形にすることを大切にしたいと思っています。
この年齢になると、この先のチャンスがどれだけあるのか、と考えてしまいます。
映画制作は資金も時間も体力もかかります。そして、老眼も進む(笑)。
だから、次が最後かもしれない、くらいの気持ちで取り組んでいます。
それでも、あと1本は絶対に映画をつくると決めています。劇場映画に挑戦して、これまでの2本だけでは人生をとても終えられない。
そして、やはりこの「沈黙」の路線を大切にしたい。僕の中では、1作目の「夜明け前のうた」と2作目の「豹変と沈黙」は連作なんです。
全く違うテーマに見えても、両作のテーマ共に、歴史的に闇に置かれてきた問題、被害者の沈黙、あるいは歴史的に書き換えられてしまう、なかったことにされてきた問題です。これからも、そうしたテーマに光を当てていきたいです。
私宅監置の問題もそうですが、それを隠そうとする巨大な力が社会には存在しています。
しかし、隠そうとする力に抗ってその闇を明らかにしないと、隔離されて人生を潰され、無念の思いで亡くなっていった被害者たちが「見殺し」にされたままになってしまう。
トラウマは世代を越えて、明らかに今に続いています。問題は全く終わっていない。
隔離された被害者が人生を踏みにじられた事実を、皆で知って問題を共有し、これからどうしていくべきか共に考えるべきだと思っています。
戦争の問題も同様です。
中国との歴史的関係を見れば明らかですが、例えば日中戦争の時代に日本軍が各地で行なった虐殺や強かんなどの犯罪を、まるでなかったかのように言う人がいます。
沖縄との関係も、「日本軍が沖縄住民を守った」と単純化する人がいますが、そうではありません。
日本兵の中にも個人ではそういう人も中にはいたかもしれませんが、軍の本質として見れば違う。日本軍は沖縄住民を守ったわけではなく、むしろ沖縄住民に牙をむいた。
自分たちの部隊を守るためには住民を殺すことも厭わなかった。「軍隊は住民を守らない」というのが沖縄戦の教訓であり、むしろ「軍隊は住民をも殺す」のが実態であった。
しかし、放っておくと、歴史を書き換えようとする力が強まってしまうから、何かの言説が出てくるたびに、「本当にそうなのか?」と常に問い続け、違うことは違うと訴えていかなければならない。
それは日々の努力であり、共生のために必要なことであり、そのためにメディアが果たすべき役割は重大です。
3作目も、これまでの経験を力にしながら、こうしたテーマを追求していきたいと思っています。
沖縄、日本、中国。この3者のスタッフで『合作』のような形で作品を作れたら面白いなあと考えています。
−−今回の映画でのご縁も踏まえて、ということですね。
はい。テレビはオンエア(放送)したらそれで終わってしまう側面がありますが、映画は長く付き合えるものです。
上映会などもそうですし、中国などでも上映できれば、作品の可能性はさらに広がっていく。日本語オンリーではなく、そういった視点も視野に入れて、次の作品は作りたいと思っています。

・原義和監督作品
タイトル:
「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」
内容:
沖縄で1972年まで続いた「私宅監置」という制度における精神障害者の人権侵害の実態を告発し、被害者たちの尊厳回復を目指す作品。監督が精神科医の遺した写真やメモを基に、関係者を訪ね、長年闇に葬られてきた歴史を掘り起こします。
HP:https://www.yoshikazuhara.com
タイトル:
「豹変と沈黙 日記でたどる沖縄戦への道」
内容:
日中戦争や太平洋戦争に参加した名もなき一兵士らの戦中日記を基に、彼らが人間性を失い“人間兵器”に仕立て上げられていく「豹変」と、戦中・戦後にそれらの体験を胸に収めつつも口を閉ざした「沈黙」を描いた作品。戦場のリアルが赤裸々に綴られた日記は、日本軍が中国戦線で何をしたのか、その加害性も伝えており、それらの戦後責任を考察します。
HP:https://www.yoshikazuhara.com
【HYAKUYOU編集部】