政治学者・白鳥令氏
「世界を駆け巡った学究の道と未来への提言」

2025.09.09
(白鳥令氏)


政治学の分野で半世紀以上にわたり理論の構築と実践的貢献を続けてきた学者、白鳥令氏

早稲田大学で政治学を学び、1966年に獨協大学法学部専任講師として教育・研究のキャリアを開始。1975年に教授、1987年からは東海大学政治経済学部で教鞭をとり(獨協大学は名誉教授)、東海大学を2006年に定年(東海大学名誉教授)、その後2010年まで秋田の国際教養大学特任教授も務めました。

この間、英国オクスフォード大学ペンブロークカレッジ(Pembroke College, Oxford University)に留学、米国の首都ワシントンD.C.のスミソニアン協会ウッドロウ・ウイルソン国際学術センター(Woodrow Wilson International Center for Scholars)フェロー、英国シェフィールド大学客員教授、ノルウェーベルゲン大学客員教授、英国エセックス大学政治学部教授等を兼任しました。

1975年には、日本政治の理論的・政策的研究議会政治推進のための啓発事業や若手研究者の育成と研究の助成、日本政治の正しい姿を外国に伝えるための国際交流を目的とした「日本総合政治研究所(IPSJ)」を設立。長年、同団体の理事長を務めてこられました。

専門領域は「現代政治分析論」で、研究テーマは政党・選挙・投票行動・政治資金といった現実政治の分析から、福祉国家論や平和研究にまで及びます。
著書には「政治理論の形成」「世論・選挙・政治」「政策決定の理論」「政治発展論」「政治の経済学」など多彩なテーマが含まれており、日本語・英語両言語で30冊以上の業績を残しています。

学界だけでなく国際的場でも民主化支援活動に積極的に取り組み、米国ワシントンの国際選挙システム財団(IFES)の国際評議員として開発途上国や中東欧での民主主義支援に参加。
1999年のコソボ地方選挙、2000年のネパールやボツワナでの講演、さらに2004年にはアフガニスタンで大統領選挙支援のため現地で講演活動を行い、現地関係者に高く評価されました。

また、マイダン革命後の2015年、JICAのプロジェクトに参加してウクライナの民主化支援活動も現地で行ない、その功績にウクライナの大学から名誉博士号が授与されています。

日本国内では、研究者として日本地方自治研究学会会長(1994-1997)、日本シミュレーション&ゲーミング学会会長(JASAG, 1999‑2003)、さらには世界のシミュレーション&ゲーミング学会(ISAGA)会長(2003‑2004)を歴任。

2003年から2020年までは在東京マルタ共和国名誉総領事(日本全土管轄)として外交的役割も果たし、2012〜2021年には「インターネットコンテンツ審査監視機構(I‑ROI)」の代表理事を務めました  。

このように、政治の理論的探究と国際民主化支援、国内外での学術活動の架け橋的存在として知られる白鳥令氏。

今回のインタビューでは、その卓越した政治分析の思想的源泉と、これまでに果たしてきた国際貢献の軌跡、そして今なお続く市民社会との接点に迫ります。

(東海大学のゼミの卒業生たちが白鳥氏の88歳の誕生日に送った帽子を被る白鳥氏。写真:白鳥氏提供)


教師として、政治学者として

−−早速ですが、先生は教師として、そして政治学者として、どのような信条をお持ちでいらっしゃいますか。

白鳥:今年(2025年)6月に、東海大学のゼミの卒業生たちが私の88歳の誕生日会を開いてくれました。
教え子たち自身が定年を迎えるような歳になっても私の誕生日を祝って集まってくれるのは、教師として嬉しい限りです。

やはり、学生が卒業後に「この先生に習ってよかった」と感じ、「自分はあの人のゼミ生だった」と誇りに思えるような、そういう教師でありたいと常に考えています。

一方で、もちろん政治学者としては、世界で第一級だと認めてもらえるような存在でありたいと思っています。ですから、研究者としてのキャリアの初期から「日本でどう評価されるか」という思考の枠組みは、あまり意識していなかったかもしれません。

(2025年6月21日に東海大学白鳥ゼミ卒業生が企画し、京王プラザホテルで開催された「米寿を祝う会」の様子。写真:白鳥氏提供)


世界への扉を開いたオクスフォードへの道

−−世界を舞台にしたご活躍の第一歩は、どのようなものだったのでしょうか。

白鳥:大学院に入り24歳になって、アメリカへ渡るフルブライト奨学金と、イギリス政府のブリティッシュ・カウンシル奨学金を貰うための試験を受ける資格ができ、暇だったものですから、この二つの試験を受けたのです。

そうしたら、まずフルブライト奨学金の試験に受かり、ハーバード大学に行くことになりました。
ハーバードに行くつもりで渡米前の研修まで受けていたのですが、出発の1週間前になってイギリスから通知が来て、オクスフォード大学に決まったと言うのです。
飯田橋にあったフルブライト委員会の事務局へハーバード行きを断りに行くと、当然事務局の人に驚かれました。
「君はハーバードに行くんだぞ!」と言われたのです。

しかし、私が「実はイギリス政府の奨学金でオクスフォードに行くことになりまして」と伝えると、事務局の方は「オクスフォードか、それなら、仕方がないな」と納得してくれました。

歴史的に見れば、オクスフォードの卒業生などがハーバードを創設したわけですから、フルブライト委員会事務局の人をはじめ、多くのアメリカ人は「オクスフォード大学の方がハーバード大学より格上だ」と感じていたのかもしれません。

私は、ただ、オクスフォードの方がハーバードより遠い所にあるし、日本人留学生も少ないだろうと思って、オクスフォードを選んだのです。
ただ、この時フルブライト奨学金をお断りしたことのお詫びの気持ちもあって、私は、後にフルブライト奨学金の審査員をしばらく務めました。

(白鳥氏の自宅に飾られているオクスフォード大学の紋章)


ワシントンでの研究生活と「働かない日本人」

−−その後、アメリカでも研究をされていますね。

白鳥:ええ、ワシントンD.C.にあるウッドロウ・ウィルソン国際学術センター(Woodrow Wilson International Center for Scholars)に1年間招聘されました。
ここはスミソニアン学術協会に属する社会科学系の唯一の研究所で、議会の超党派の議決で割り当てられる国家予算で運営され、所属研究者の半分を世界中から1年任期で選抜によって集め、残り半分はアメリカから公募するという、非常に評価も高く、良い条件の研究機関です。

私は、日中国交回復時の初代中国大使だった小川平四郎さんの次の年に、招聘されました。

当時、日本人は働きすぎ(ワーク・ア・ホリック)だというイメージが世界中にありましたから、私はそれを変えようと思い、健康を害していた理由もあって、ワシントンでは、昼頃に研究室に行き、日本からの来客にランチをご馳走して、14時か15時には郊外の家に帰るという生活をしていました。
いかに日本人は働かないかというイメージを、アメリカの首都の人々に植え付けようとしたのです(笑)。

本当は1年間の予定でしたが、次の年にイギリスのシェフィールド大学の客員教授になることが決まっていたので、獨協大学での授業もあり、ワシントンD.C.での滞在は、10ヶ月に短縮してもらいました。

私は、若い頃は、このように世界中を旅していました。
幸い獨協大学が非常にリベラルな大学で、1年の半分を日本で、半分を海外で過ごすという生活を認めてくれていました。1年分の授業をすることで月給は普通に貰っていましたが、日本と外国とを往復する飛行機代が高く、経済的にプラスになることはありませんでした。

(オクスフォード大学ペンブロークカレッジの食堂。遠方の1段高い席は教員の席。教員の席(High Table)は伝統的にSix feet highと表現されるが、実際は20センチ程の高さ。教員も学生も、黒いガウンを着ないと食堂に入れない。ラテン語のお祈りで食事となる。写真:白鳥氏撮影)



「名誉ある奨学金」(BCJA英国留学奨学金)の創設

−−先生が設立に関わったBCJA(British Council Japan Association)奨学金についてお聞かせください。

白鳥:BCJA英国留学奨学金は、英国留学経験者が毎年1口5000円、2口以上の善意の寄付をすることで成立している奨学金で、年額15万円ではなく、生涯に1度15万円の奨学金を授与されるという、他の奨学金と比較すれば途方もなく少額の奨学金制度です。
しかし、金額の大小ではなく、「その奨学金をもらうことが名誉である」、そんな格式の高い奨学金に、私はしたかったのです。

オクスフォード大学では、大学が認める格の高い奨学金をもらっている学生は、長い袖のガウンを着ることが許されます。
どんなに位の高い貴族の子弟でも、奨学金を得ていなければ短いガウンしか着ることが許されません。だから、金持ちの優秀な学生はプライドのために奨学金に応募し、合格すると「お金は要りません、でも奨学金授与者名簿には載せてください」と奨学金授与者名簿に名前を載せることで満足し、奨学金は、全額返還したりするのです。
名簿に載り、自分の能力を認められることが大事だからです。

私は、BCJA英国留学奨学金の審査委員長をしている時に、このオクスフォードやケンブリッジにおける奨学金の仕組みを参考にしました。
すると、信じられない程に優秀な学生や研究者が応募する様になり、BCJA英国留学奨学金の評価は高まり、このBCJA奨学金をもらっている学生は優秀だと英国の大学側が認め、今度は英国の大学が、授業料全額免除など、より大きな経済的支援をBCJA英国留学奨学金の授与者に出してくれるようになりました。
結果的に、私たちのわずかな資金が、より優秀な人材とより大きな支援を呼び込むきっかけになったのです。

最近では、この奨学金を得た人たちがグループを作り、横の繋がりが生まれ始めています。非常に優秀な人材が集まっており、これからが楽しみです。


オクスフォードの記憶と若き日々

 −−オクスフォードでの学生生活は、いかがでしたか。

白鳥:私が英国政府の奨学金を得てオクスフォードに留学した1963年から、英国政府の奨学生は汽船で英国に行くのではなく、航空機を利用する旅に変更になりました。

そこで私は、世界初のジェット旅客機「コメット号」でロンドンに行くことになりました。ただ、大型長距離ジェット旅客機とはいえ、まだ長距離は一度に飛べないので、東京から香港、バンコク、ニューデリー、ベイルートと給油を繰り返して飛んで行くのです。

正規の航空運賃は何回途中降機(ストップオーバー)しても同じなので、一般的ビジネスブックを1冊翻訳して資金を作り(題名は『明日のアイデアを創造する』で、これが私の最初の出版です)、せっかくだからと、ベイルートから、ギリシャのアテネ、イタリアのローマに立ち寄ってからロンドンへ向かいました。西ヨーロッパの文明の発達の足跡を辿ったと言う訳です。

1963年当時のオクスフォード大学には、古い伝統が色濃く残っていました。
オクスフォード大学はオクスフォードの市内に散在する30程のカレッジから成立していますが、私が入ったペンブロークカレッジ(Pembroke College)は1624年の創立で、私は1930年入学の三菱財閥の子息以来2人目、第2次大戦後初めての日本人でした。
ウェイターは学生のことを「サー」付けで呼び、階級制度の名残がありました。

私の評判が悪くなかったのか、翌年から毎年一人ずつ外交官試験に受かった研修生等の日本人を採ってくれるようになりました。

授業は講義の場合、ステンドグラスの入った食堂ホールなどを使って行われることが多く、講師の声が石造りの建物の壁に反響して何を言っているのか、さっぱり分かりません。意を決して「何を言っているのか君は分かっているのか?」と隣の学生に尋ねてみたら、「自分もさっぱり分からない」との答えでした。

戦争のドキュメンタリーフィルムを見る「第二次世界大戦史」の授業は、旧敵国人は私一人であったから、まだ第二次大戦の記憶が人々の脳裏に残っていた1963年の教室では、何となく周囲の英国人学生と私との間に緊張感があり、終わるとどっと疲れる授業でした。



二つの政治学:「伝統的政治学」と「政治科学」

−−帰国後は日本の学会で報告されたそうですね。

白鳥:はい。私がオクスフォードから帰国した1964年当時、アメリカでは「ポリティカル・サイエンス」と呼ばれる科学的な政治学が主流になりつつあり、この新しい「政治科学」の波が日本の学界にも怒濤の様に押し寄せていました。

一方、私はイギリスでは、17世紀英国の思想家ジョン・ロック(John Locke 1632-1704)など伝統的な政治思想家の手書きの文書をオクスフォード大学の図書館で読んでいました。

その私が、英国からの帰国早々「政治における発展の概念と発展学の可能性について」というアメリカ流のタイトルで報告をしたので、皆が注目し、この私の日本政治学会の報告には大勢の聴衆が集まりました。

私の頭の中では、プラトンやアリストテレスから続く伝統的な政治思想と、ゲーム理論や数量分析といった現代的なアプローチの二つの要素が、政治という行為における価値判断の受容を通して一つに融合して理論化されています。
しかし、それはなかなか他の政治の研究者から理解されませんでした。

当時、東京お茶の水の英国哲学の研究者の集まりから講演を依頼されたのですが、私が日本政治学会で現代的な報告をしたものだから、そのグループから講演を断られたこともあります。私自身はその二つの研究に矛盾を感じていないのですが。


コンピューターとの出会い

 −−先生は早い段階からコンピューターにも注目されていたとか。

白鳥:コンピュータの発達の最初の時期、まだダイオードなど電子的スイッチングシステムも完成していなかった1950年代の後半、早稲田大学生産性研究所に導入された大型高速回転ドラム式のコンピューターのプログラム講習会に、私は参加しました。
キャンパスを歩いていて、何となくその講習会のポスターに惹かれて、この講習会に応募したのです。

参加者はほとんどが理科系の学生でしたが、私も混じってプログラムを学びました。
READ命令だけは手で一つずつ大型回転ドラムのコアをスティックで磁化させて入力する、そんな時代です。
その頃から、コンピューターがもたらす可能性の大きさを感じていました。

実際に、コンピューターを使って、選挙結果などの政治データの統計分析を行う作業なども、政治の研究者の中では、早い機会に取り入れました。



政治の本質とは「未来の選択の行為」

 −−先生にとって、「政治」とは何でしょうか。

白鳥:私は、政治とは「未来の選択の行為」だと考えています。
未来は不確定です。だからこそ、誰もが「自分が正しい」と政治の世界では主張できるのです。
また、人々が未来を選択した結果は社会的決定として人々の未来を決定することになるので、人々は未来の選択と言う政治的行為において、自己の主張に自分の全存在をかけて訴えることになるのです。このため、政治的対立は、非常に激しいものになります。

この激しい対立の政治の世界で、社会全体の未来を決める方法が「民主主義」であり、その手段が「多数決」です。

しかし、多数派が常に正しいわけではありません。
社会的決定で多数決原理を採用する時、我々は多数派の意見が正しいと仮定しているのではありません。そうではなく、多数派は間違って居るかも知れない、しかし、多数の人々は今は間違っているとしても、いつかは正しいことを理解出来るであろうという楽観的な仮定を、我々はとりあえず支持しているのです。
多数派の選択が正しいと言うのではなく、正しい選択が存在するとすれば、今は人々がそれを理解出来ないとしても、将来いつかは人々はそれを理解するだろうと信じて、多数決による民主的決定を行うのです。

政治的決定は「人々の未来の選択の行為」だという定義を実例で考えてみましょう。

今、経済の状況が非常に低迷していて失業も多いと仮定しましょう。この状況を改善するには、税制に関して言えば、二つの方法があります。

一つの方法は、減税をすることです。減税をすれば、人々の手元に現金が残り、その現金で人々は商品を購入し、消費が拡大して経済の状況は改善するでしょう。
もう一つの方法は、逆に、増税の方向に向かうことです。英国の経済学者ケインズの助言に従って増税をすれば、政府の使える公共財源は増加します。政府がこの公共財源を効果的に使用すれば、経済は活性化し、経済状況は改善するでしょう。

ここには、正反対の二つの未来の選択肢があります。まさに、政治的決定が行われなければならないのです。

人々は、自分の財布にお金が残った方が良いと考え、減税政策を選択するかも知れません。でも、その結果、効果的な集中投資が行われず、景気は悪くなる一方で、失業も増えるかも知れません。その時、減税政策を選択した多数の人々はみずから決定の誤りの責任をとって、日本海に身を投げ自殺するでしょうか?
そんなことは起こらないでしょう。誤った決定が行われた時、その責任を明確に出来ない決定のシステムは、誤りを是正するにも遅く、良い選択を生み出す可能性も低いといえるでしょう。

人々が直接未来の選択を行うのだから、もっとも理想的な民主主義の形態だと考えられる直接民主主義の欠陥は、ここにあるのです。
誤った決定が行われた時、決定の責任を明確に誰も取らない。したがって、誤った決定も是正されにくいと言うことです。

(ネパールの民主化支援で現地の選挙管理委員会委員らに講演している写真。写真:白鳥氏提供)


直接民主主義と議会制民主主義

白鳥:議会制民主主義は、この直接民主主義の欠陥を見事に解決していると言うことが出来ます。

経済学者のシュンペーター(Joseph Alois Schumpeter、1883年 – 1950年)は、議会制民主主義の根幹は「競争的指導者選出のプロセス」にあると指摘しています。

議会制民主主義が直接民主制と違う所は、直接民主制では決定に参加する人々について「一般大衆」ただ1種類しか考えられていないのに対し、議会制民主主義では、実際に議会で決定に参加する政治的エリート(議員たち)と、その政治的エリートを選挙で選び出す一般大衆(普通の人々、選挙民)の2種類の人々が考えられていることです。

議会制民主主義では、政治的エリートと大衆という、支配=被支配の上下関係にある2種類のエージェントが存在するので、直接民主制の社会より政治的不平等があり、非民主的な社会と言えるかも知れません。

直接民主制で例として考えた経済活性化のために減税をすべきか増税をすべきかと言う選択の例を考えると、議会制民主主義では、一般大衆は減税か増税かの議会での決定には直接加わらず、自分たちに代わって議会で決定を行う議員(政治的エリート)の選出を行う選挙に参加するだけです。

議会制民主主義では、一般大衆を代表する議員(政治的エリート)による決定の結果がうまくいっている間は、一般大衆は議会における議員の決定を人民(一般大衆)の決定だと称してこれを承認し、もしその決定の結果がうまくいかなかった時は、それは自分たちの決定したことではないと言って議員たちの責任を追及し、議員たちの罷免を要求し議会の解散を要求するのです。

決定がうまくいっている時は人民大衆の決定ではない議会の決定を人民の決定とみなす虚構(フィクション)を承認し、議会の決定がうまくいかない時には、この虚構を「その決定は自分たち人民大衆の決定ではない」との現実でこれをひっくり返し、政治エリートの責任を議会解散という形で現実に追求しているのです。

議会制民主主義では、政治エリートと大衆と言う不平等が存在し、大衆の政治選択は議員の選出に限られている点で民主主義社会としては直接民主制の社会より非民主的かも知れないけれど、実際の決定を行った人間の責任を追及出来ると言う点で、よりよい決定により早くより容易に到達出来る可能性を生み出していると言えます。

(アジア・アラブの選管関係者が千葉県市原市長選挙の開票風景を見学している写真。写真:白鳥氏提供)


−−多数決が常に正しいとは限らない中で、他に、何が重要になるのでしょうか。

 白鳥:少数意見を持つ人々の言論の自由を保障することです。
多数決原理に基礎を置いた民主主義の決定において、多数者が誤った判断をした時、その誤った判断に是正の機会を作るのは、少数の反対者の声です。誤った決定が多数者によってなされた時、次の段階で誤った決定を是正するのは少数の反対者の声なのです。

だから、民主主義社会で、多数者は現実に決定を作り出すという点でもちろん重要ですが、少数の反対者の存在はその決定が誤っていた時に是正のモーメントを生み出すと言う点から、多数者と同じ重さで重要なのです。
少数意見を封じ込めてしまえば、社会は誤りを正す機会を失い、停滞してしまいます。意見の多様性は、社会の創造的発展の源泉です。

(白鳥氏がモロッコの人権委員会で講演した時の様子。写真:白鳥氏提供)


文化から見る民主主義

−−多数決以外の側面で、文化の違いについて興味深いエピソードはありますか?

白鳥:もっと柔らかい話をお望みなら、面白いのはイギリス人で、彼らは徹底的に列を作ります。
例えば公衆電話に行列があって、ひとりの人が公衆電話で話が終わってもう一度かけようとすると「一番後ろに並べ」と注意される程です。

また、イギリスでは人里離れた谷間にポツンと公衆電話が立っていることがあります。日本人は「あんな誰も使わない所に公衆電話を設置するのは無駄だろう」と言いますが、イギリス人は「そういう場所だからこそ必要なんだ」と答えます。
車が故障した時に、周りに助けを呼ぶ家がなければ困るから、その様な場所にこそ公衆電話が必要だとの論理です。

多数の利益が少数の利益より優先されなければならないとの多数派の論理が、いつも正しいとは限らない、という一つの例かもしれませんね。


ウクライナ支援の現実と国際政治

 −−先生はこれまでにウクライナの民主化支援にも深く関わってこられました。

白鳥:2015年にマイダン革命後のウクライナで、民主化支援のさまざまなプロジェクトをJICAのスタッフと共に実施しました。

当時、既にウクライナ領土の東部2州では、ロシア系住民によって半ば戦争状態が日常化していましたが、その頃、ウクライナの将来を検討するシンポジウムに参加したしたことがあります。
そのシンポジウムで、私は「ウクライナは独力では国を守れない。早い段階でEUやNATOと手を組むべきだ」と訴えました。会場からは拍手が起こりましたが、当時は、まだ論争の中にある発言でした。

また、東部のロシア系住民が住む地域への支援が不足しているのではないかと言う点も指摘しました。
当時東部2州に存在していた、東部2州と他の州との所得格差を放置すれば、ロシアに付け入る機会が生じるだろうと心配したからです。
沖縄の本土復帰の時、日本の中央政府が米軍統治下に在った沖縄の住民に日本人としての国民意識を再醸成するため、沖縄に多大な支援をしたように、ウクライナも東部への手厚い支援をすべきだとも思ったからです。この発言にも拍手をいただきました。

(ウクライナの大学での名誉博士号授与式の様子。写真:白鳥氏提供)


−−2014年のクリミア併合は、どう見ていらっしゃいましたか。

白鳥:あの時点で、すでにウクライナとロシアは戦争状態にあったとはっきり我々は認識すべきでした。
ただ、私にも二つの誤算がありました。
一つは、まさかロシアが直接、全面的な武力侵攻に踏み切るとは思わなかったこと。もう一つは、米国トランプ大統領の存在です。彼の政権があそこまでロシアと深く経済関係で関わっているとは思いませんでした。

(ウクライナにおける民主化支援の様子。写真:白鳥氏提供)


−−サハリンでのご経験が、その気づきに繋がったそうですね。

白鳥:ええ。民主化支援の活動でキルギスやサハリンを訪れると、国際政治の現実がよく見えます。

アメリカがロシアと石油の共同開発をしているサハリンには、スターリンによって強制移住させられたウクライナ人が大勢住んでいるのです。
独立志向の強い民族を、スターリンは、開発のための労働力が必要なサハリンやキルギスなど辺境に送り込んでいました。私が日本のウクライナ支援に関する本をサハリンに持参した時、サハリンに住むウクライナ人たちは大歓迎をしてくれました。
歴史が巡り、ロシアに侵攻されているウクライナの今の状況を、サハリンに住むウクライナ人たちがどう見ているか、私には、非常に複雑な感情が湧いてきます。

私は、ロシアがEUの拡大等、西側からの安全保障上の圧力を感じる気持ちは理解できますが、ロシアが今回の無謀な一方的ウクライナ侵攻において、結果として領土を拡張する等の利益を獲得するのを許してはならないと考えています。

(市の中心の広場。2015年当時、マイダン民主化革命の犠牲者への献花がなされていた。現在は、対ロシア防衛戦の何千もの犠牲者の追悼の国旗で埋まっている。写真:白鳥氏提供)


文化支援と偶然の出会い

 −−ルーマニアでも支援活動をされていたそうですね。

白鳥:共産圏だったルーマニアの社会科学の近代化を支援し、名誉学位をいただきました。

ある時、トライラテラルコミッション(日米欧3極委員会)の国際会議でブカレストを訪れ、土曜夜のレセプションで大統領とルーマニアの印象派の画家たちの話をしました。

民主革命の際の市街戦で損傷した国立美術館(旧王宮)の話をすると、翌日、休館日にもかかわらず、大統領が私のために美術館を特別に開けてくれたのです。

私が日本に帰国してから、ルーマニアの国立美術館復旧支援の働きかけを東京ですることを見越してのことでしょう。私も、その期待に応えるべく、できる限りの努力をしました。
結果的に、日本企業から多額の寄付を得ることが出来、美術館の修復に役立てることが出来ました。


未来へ:知的好奇心を持ち続けること

−−最後の質問になりますが、これから様々な背景を持つ人々が共生していく上で、何が大切だと思われますか。

白鳥:無理に国際的になる必要はないと思います。日本の地方の村に根付いた文化に触れることを大切に思う人もいていい。

ただ、どんな形であれ、皆が、国際的なことも含め、さまざまなことに「知的な好奇心」を持ち続けてほしいと思っています。その好奇心があれば、自然と道は開けて行くでしょう。

私自身、特に国際志向が強かったわけではなく、房総半島の山奥で育ったのですが、ジョン・ロックの研究のためにイギリスへ渡ったのが、国際社会との接触の始まりです。
その結果、自然な流れの中で、さまざまな国際的な舞台に立つことになったのです。

大切なのは、外で得たものを日本に、あるいは自分の故郷に向かって還元していくという視点を持つことだと思います。

そして、どんな相手とも、「女王であろうと橋の下の住人であろうと、同じように普通に話せる」(これは、イギリスにおける理想の紳士像です)、そういう態度が必要です。

どんな相手とも対等に、そして普通に話せるそういう態度と価値観が、これからの共生社会ではより一層重要になるのではないでしょうか。



・日本総合政治研究所
HP:http://www.ipsj-tokyo.org

・BCJA英国留学奨学金
HP:https://www.bcja.net

・(一社)日本マルタ友好協会
HP:https://japan-malta.com/




【HYAKUYOU編集部】

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