
(田知殷(ジョン・ジウン)さん)
今回インタビューさせていただいた田知殷(ジョン・ジウン)さんは、明治大学国際日本学研究科の博士課程に在籍している韓国人留学生です。
明治大学国際日本学研究科は明治大学の中野キャンバスに所在し、国際的な観点から日本を深く認識し、そこからの気づきをもとに、様々な研究分野を学際的に学び、研究することを目指している研究科です。
田さんは日本で生まれ、小学校3年生まで日本で暮らし、その後韓国へ帰国、小学校4年生から20歳までの期間を韓国で過ごしました。
高校卒業後は明治大学に進学、その後同大大学院に進学し、現在に至ります。
現在大学院では、多様な経験をしている大学生にとって、その経験を通してどのようなことを学んでおり、それらの学びに足場かけをすることができる環境デザインについて研究されています。
田さんは、幼少期の日本での生活経験やその後の韓国での生活などを経て、自身のアイデンティティについて考え続けています。
そんな田さんに、自身のアイデンティティへの考え方や大学院での研究内容、将来のことなどについてお聞きしました。
–−今日はよろしくお願いします!まず最初に田さんの日本との縁についてお聞きしてもいいですか?
私は、韓国人の両親が日本に留学していた際に生まれたので、日本生まれです。小学校3年生まで日本の学校に通い、小学校4年生から高校3年生まで韓国の学校に通いました。
大学進学を考えた時に、自分が韓国に完全に馴染んでいるという感じがあまりしていなかったんですよね。それは小学生の頃からです。
このまま韓国の大学に進学した時に、自分がやりたいことが見つかるのか疑問を感じていました。
そんな時に日本の大学に国費留学できる制度を知って、挑戦しようと思ったんです。
幼い頃日本に住んでいましたが、大人になってから日本で暮らすことで感じる変化にも興味がありました。
––たしかに子どものときと大人になってからでは、感性も変わってますよね。
ただ、その時の受験は失敗してしまって、結局二浪してしまったんですよね(笑)
どうしようかと思ったんですが、よく考えたら日本語はできるので、理系から文転して、とりあえず文系で日本の大学に行くことにしました。
その後、半年間、文系の勉強をがんばって、20歳のときに明治大学国際日本学部に入学しました。
この日本留学を通じて、親と少し離れて、自分のアイデンティティを見つめ直したり、韓国と日本の行き来の中で生まれたモヤモヤを解消したいという気持ちがありました。
––田さんにとってのモヤモヤとはどういうものだったんでしょうか?
私は自分のことを韓国人だと思っています。
ただ、韓国の友だちと話していると些細な文化面が噛み合わなかったりするんですよね。
私は、当時幼かったこともあって、自分自身も家族も韓国人だし、日本と韓国は見た目的にもそこまで大きな違いを感じられなかったから、韓国の学校を通うことになってもカルチャーショックを受けるだろうとは考えてもいませんでした。でも、明確な違いというものは当時の自分は気づけなかったのですが、友達と距離の詰めかたとか、学校生活での些細なルール、放課後の遊び方などに、かなり違いがあって、その点すごくモヤモヤしていました。それが原因で友人関係もうまくいかない時期がありました。
また、私が韓国で住んでいた地域は、とても勉強熱心な地域で、勉強についていけなかったことも辛かったです。
韓国語はわかりますし、問題なく話せるんですが、それを勉強に落とし込むのは、また別の話なんですよね。
勉強がうまくいかないことで、自尊心も下がりますし、同じ悩みを抱えている人が周囲にいなかったこともあり、大変でした。
特に小学校、中学校は嫌でしたね。高校で理系を選択して、ようやく勉強のやり方が少しずつわかってきた気がします。
また、高校では精神的に大人になったこともあって仲の良い友だちもできました。
––精神的に大人になったことで、モヤモヤ感が解消されていったんですね!
でも、やっぱり、私ってそもそものんびりした性格なんです。なので、せかせかしていて、成果を求められるような社会の空気感の中で、私自身はマイノリティ性を感じていて、自信がない部分があり、このまま韓国でやっていけるかどうかといった不安は心のどこかでありました。
日本に留学して良かったと感じたのは、自分が「外国人」としていられることです。
韓国では自分は韓国人なのに、韓国人じゃない感じがするんです。
自信を持って韓国人だと言えないけど、日本人ではないし、みたいな
––たしかに韓国では帰国子女的な扱いだったと思いますが、日本ではあくまで留学生ですもんね。
だから日本では、文化面で少し合わないことがあっても、「私は日本人じゃなくて、外国人だし、留学生だから」と割り切って、言い切ることができるんです。
日本に来て、その部分が割り切れたからこそ、「自分のこういう部分は日本人に似てるけど、こういう部分はやっぱり韓国人なんだ」ということが、わかりやすかったんです。
「日本にいて楽な面もあるけど、別の面では韓国のこういうところがいいな」ということが見えてきたことも、留学してよかったですね。
––日本への留学は、留学経験者の両親の影響もあったんでしょうか?
そうですね。小学校3年生まで日本に住んでいたので、日本のイメージはなんとなくわかりますし、両親の友人が日本でたくさん生活しているのもあって、安心できる部分もありました。
––大学で日本に留学して、小学生の時と比べて日本への認識の変化はありましたか?
小学生の頃は、日本で生まれ育っていたので、自分が韓国人という意識もなくて、日本への認識という面では無感覚でしたね。
留学を機に再来日した際、ビザの手続きや部屋の賃貸などを通じて、「日本では自分が外国人なんだな」ということを、とことん意識するようになりました。
留学したのが明治大学の国際日本学部でよかったです。
この学部には、留学生も多いですし、日本の国際化の現状やダイバーシティに関心を持つ学生が多く在籍しています。
自分の抱える悩みや社会への疑問を学部内の友人たちと気軽に話し合うことができる環境だったので、自分の中に溜め込むこともなく、気持ちも楽でした。
忌憚なく、気持ちや考えを共有することで、新たな気づきもあったりして、とても良い環境でしたね。
––田さんにとって、国際日本学部の環境がとても合っていたんですね!
明治大学国際日本学部は自分が関心を持ったことを何でも学べる環境だったのも良かったです。
私は理系から文転したこともあって、やりたいことが明確にあるわけではなかったので、国際日本学部のそういった環境に惹かれたというのも志望理由の一つです。
国際日本学部では、日本について考える際は海外の視点で、海外について考える際は日本の視点で見ます。そういった視点の変換がある点も、自分のアイデンティティを見つめ直すという意味でとても助けになりました。
––田さんが現在の研究をしようと思ったのはどういう経緯があったんでしょうか?
学部生時代にダイバーシティの授業があって、それに関連したインタビュー動画を作成する課題が出たことがあったんです。
その時、私はLGBTQの方にインタビューしました。それがすごくやりがいがあったので、似たようなことができるゼミを探したんです。
その中で、岸磨貴子先生の学習環境デザインを学べるゼミに出会いました。
岸先生のゼミでは、例えば、何か問題があったときに、そのものに原因を求めるのではなく、環境がそれを問題にしているという考え方をベースに、問題発生の原因となっている環境をどのようにデザインするかを考えます。
私はこの学習環境デザインの話を聞いて、自分が何を研究したいか、まだ見つかってないけれど、ゼミでの研究が、自分が韓国社会に馴染めなかったりすることについて、自分に責任があるというように考えてしまう思考を変えることにも繋がるんじゃないかと思ったんです。
––問題を取り巻く環境を考えるゼミであれば、色々な分野で考え方を応用できそうですね!
その後、大学3年生の時に無事岸ゼミに入ることになったんですが、ちょうどコロナ禍になって、ダイバーシティに関して何もできなくなってしまったんです。
そこで、研究内容をどうしようか考えた時に、当時コロナ禍でオンライン授業が増えたこともあって、「オンラインが授業の中心になって、学生の学びがどのように変わったか」について研究し、卒論を書くことにしました。
国際学会にも出させていただいて、チームで発表したんですが、それが楽しかったんですよね。学会のために研究して発表するというのが面白かったんです。
就活が始まるタイミングで、日本で就職も考えたんですが、学会で感じた研究の面白さ等を理由に、大学院に進学することに決めました。
研究分野自体は、自分のアイデンティティと直接的な関係はないんですが、研究における考え方を身に付けることで、自分のアイデンティティを見つめ直せるようになったのは、大きかったですね。
辛い気持ちになったりもするので、まだ自分のアイデンティティについて、うまく言葉にできないんですが、将来的には自分のアイデンティティを研究分野にするのもいいなと思っています。
––現在は、「大学生の学び」について研究していらっしゃるんですよね。
そうですね。私は留学生という立場で日本に来たこともあって、勉学を頑張りたいという気持ちが強かったんですが、実際の大学生活は少し違ったんですよね。サークルとバイトばっかりで全然勉強してないじゃん!って思ったんです(笑)
サークルはすごく楽しかったんですが、勉強してない時間にすこぐ罪悪感があって。
何のために大学に来たんだろうっていう疑問があったんですよね。
だから、大学生が「やらなければならないこと」と「やったこと」が、どう学びに繋がっているのか研究してみたいと思ったんです。
当時はサークルについても、遊ぶだけの活動だと思ってましたが、今は研究を通じて、大学生だからこそできる、何らかの学びに繋がる活動なのではないかと思っています。
調べれば分かる専門的な勉学よりも、大学生だからこそ身に付けるべき思考方法や物の見方があるのではないかと考えていて、それが今の研究における問いにもなっています。
大学生が学びを通じて、その振り返りを行う際に、「〇〇をしたから××になった」というような限定的な思考だけでなく、情動や身体性も考慮して自身の経験を意味づけする思考法がないか探すのが、(仮)ではありますが、今の自分の研究テーマだと思っています。
––将来的には、韓国で研究をしたいといったような思いもあるんでしょうか?なりたい自分像のようなものもあればお聞きしたいです!
将来的に韓国に戻るか、日本で生活を続けるか、別の国に行くかといったことは今は何も考えていません。
個人的には自分を受け止めてくれる場所にいたいという気持ちがありますね。
なので、これから10年くらいは日本で生活すると思います。
その後、いい機会があれば、韓国に戻るかもしれませんし、日本がすごく良ければ日本に住み続けるかもしれません。
もっと違ういいものがあれば、別の国にも行きたいと思っています。
なりたい自分像に関しては、私はクリスチャンなので、それに依拠するところも大きいですね。
私は小笠原諸島が大好きなんですが、同島には一つだけ教会があります。
島では、宣教師の来島がきっかけで人が増えたという背景に加えて、クリスチャンでない人々にとっても教会が島の中心的存在だったという歴史があるそうなんです。もちろん諸説あるとは思いますが。
私が教会主催のキャンプで小笠原諸島を訪れた際には、信徒さんでない商店の方から、「島の教会の牧師さんに子どもをクリスマスパーティーに連れて行ってもらった」という話などを聞いて、教会が島の生活に密着していることを実感しました。
また、島では西洋人と日本人が結婚して人口が増えていったという歴史もあって、島民の中には顔立ちが西洋人に近い方が多くて、名前もセーボレーやワシントンといった西洋的な名前の方がたくさんいらっしゃいます。
そんな中で、第二次世界大戦の折に、島内に軍事施設を作る関係で、島民の方々に日本本土への帰還命令が出たんです。
そうしたところ、西洋的な名前を持つ島民の方々は敵国の名前であることを理由に、名前を日本名に変えさせられたそうです。
戦後、島がアメリカの領土になった際は、元々住んでいた欧米系の原住民のみ帰還を許されました。帰還した方はアメリカの教育を受けていたそうです。
しかし、その後、島は日本に返還されることになります。当時、島民の方々としては言語も混ざってますし、そうした時代の流れに翻弄されたと思います。
小笠原諸島は、昔はボニン・アイランドと言われていたこともあって、島民の方々の中には、自分たちのことを日本人でもアメリカ人でもなく、ボニン・アイランダーだというアイデンティティを持って生活していた方もいらっしゃったそうです。
この話を聞いたときに、自分と似ていると思ったんですよね。
研究は考えを身に付けるきっかけになりましたが、小笠原諸島での経験は「自分はこのままでいいんだ」と思わせてくれる価値観を育んでくれました。
だからこそ小笠原諸島がより大好きになって、定期的に教会にも訪問して教会の皆さんの話を聞いています。
どういう人になりたいかと言われたら、まさに小笠原諸島の島民の方々のようになりたいですね。
私は色々と思いつつも、今でも「韓国人としてこうしなければならない」、「日本にいるから、こういう部分は日本に合わさないといけない」と思ってしまいます。
生きる上で、それらを全部無視するわけにはいかなくて、それらを分かった上で、自分の「軸」を確立できるような人間になりたいと思っています。
そのためには両国の文化をきちんと知る必要があると思いますし、わからないでペラペラと話す人になってはいけないと感じています。
将来的には、このまま研究の道に進みたいと思っているので、なりたい人物像に近づくためにも研究を上手く使えたらいいですね。
・明治大学国際日本学研究科
HP:https://www.meiji.ac.jp/ggjs/
【HYAKUYOU】編集部
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