「日本僑報社」代表・段躍中氏
「『知彼知己』で築く日中の架け橋──『出版』と『交流』の信念」

2026.01.05
(段躍中氏 写真提供:段氏)


東京・西池袋公園。毎週日曜日になると、日中両国の言葉が飛び交い、笑顔で語り合う人々の輪ができます。
「漢語角(中国語コーナー)」と呼ばれるこの青空交流会を主宰するのが、「日本僑報社」代表・段躍中氏です。

2007年の開始以来、雨の日も風の日も、そしてコロナ禍においてはオンラインも駆使して継続されたその活動は、すでに885回を超えました。
「画面越しでは伝わらない『真情実意(本当の感情)』がある」と語る段氏は、徹底した現場主義を貫く日中交流のキーパーソン。

「日本僑報社」における出版事業や「漢語角(中国語コーナー)」での日中交流のほか、中国人が日本語で書く作文コンクール「中国人の日本語作文コンクール」、日本人が中国語で書く作文コンクール「日本人の中国語作文コンクール」(現・「忘れられない中国滞在エピソード」)、それらから派生した日中青年交流「日中ユースフォーラム」にも力を入れるなど、段氏の活動は多岐に渡ります。

現在でこそ外務大臣表彰(2009年)を受賞するなど華々しい活躍を見せる段氏ですが、その道のりは決して平坦ではありませんでした。

33歳で来日。言葉もわからず、アルバイト先の居酒屋夫婦に日本語を教わり、来日初日には全財産を失いかけるトラブルにも見舞われました。
しかし、そこで彼が目にしたのは、紛失した鞄が手つかずで戻ってくるという「日本の奇跡」と、見返りを求めずに助けてくれる日本人の温かさです。

「身内のサークル活動では意味がない」と、あえて日本語での出版にこだわり、一万人の在日中国人のデータを集め、日中両国の人々の声をコンクール形式で社会へ発信し続けてきた35年。
なぜ段氏は日本社会へ「発信」し続けるのか。そして、彼が夢見る「いつでも中国を感じられる場所」とは。



「背水の陣」で挑んだ日本留学

−−まずは、これまでの歩みについて教えていただけますか。来日されたのは1991年とお聞きしました。

段躍中氏(以下、段):はい。1991年の8月に来日し、今年でちょうど35年になります。当時の私は33歳。中国では「中国青年報」という新聞社の編集者・記者としてキャリアを積んでいました。実は、妻が私より先に、1989年に日本へ留学していたんです。

当時、私は新聞社でそれなりのポジションにおり、仕事も充実していました。しかし、妻と長く離れて暮らすのは家庭として良くない。とはいえ、当時の職場は私が辞めることを引き止め、「海外留学なんて必要ない」というスタンスでした。

最終的に私が選んだのは「停薪留職(給与は停止するが籍は残す)」という制度の利用でした。「1年以内に戻らなければ職を失う」という条件付きです。まさに「背水の陣」でしたね。

33歳という年齢で、日本語は全くできない。右も左も分からない異国の地で、もし失敗したらどうしようという不安は常にありました。それでも、妻を追いかける形で海を渡ったのです。



−−言葉も通じない中での生活は、相当なご苦労があったのでは?

段:ええ。最初は完全に手探り(摸爬滚打)の日々でした。一時は本当に一年で帰ろうかと思ったほどです。しかし、半年ほど経つと環境にも慣れてきました。そこで気づいたことがあったのです。

日本に来て驚いたのは、学びに対する「年齢制限」がないことでした。中国では一度就職してしまうと、再び大学に戻って学位を取るには多くの制限があり、ハードルが高い。しかし、日本では何歳からでも大学院に入り、勉強ができる。
せっかく日本に来たのだから、ただ働くだけではなく、学位を取りたい、学びを通じて自分を高めたいという意欲が湧いてきました。

そこからは、アルバイトと独学の日々です。豊島区の無料日本語教室に通ったり、ボランティアの先生に教えてもらったりして必死に勉強しました。その甲斐あって、1993年に駒澤大学の大学院に入学できました。その後、2000年に新潟大学で博士号を取得するまで、最初の約9年間は学業中心の生活でした。



−−ご専門はメディア研究だったそうですね。

段:はい。当時、東京近郊では雨後の筍のように新しい中国語メディアが次々と誕生していました。私は学生としてそれらを研究対象にすると同時に、自らも多くの記事を寄稿していました。
修士課程では華人メディアを研究しましたが、博士課程に進む際、「改革開放後に来日した中国人留学生の歴史や現状」を誰も本格的に研究していないことに気づきました。当時は「留学生=出稼ぎ」や「犯罪」といった負の側面ばかりが注目されていましたから。

彼らが背負っている苦労や、日本社会への貢献という側面を、私が持っている一次資料で明らかにしようと考えたのです。



メディアへの違和感と「日本僑報」の創刊

−−学生という立場でありながら、なぜ自ら出版社や日本語の新聞(日本僑報)を立ち上げようと思われたのですか?

段:大きな理由は二つあります。
一つは、既存の華人メディアの限界を感じたからです。当時、私はいくつものペンネームを使い分けて多くの中国語の記事を書いていましたが、結局のところ、読者の9割以上は我々中国人自身でした。いくら熱心に書いても、それは「身内のサークル活動」に留まり、日本社会に対して何の影響も与えられない。この閉塞感を打破したかったのです。

もう一つは、当時の日本のメディア報道に対する強い違和感、もっと言えば「義憤」です。
ある時、中国人が他人の自転車を間違えて乗って行ってしまったという些細な事件がありました。本来なら社会面の小さな記事で済む話です。ところが、新聞ではあたかも凶悪犯罪のように黒く大きな見出しで報じられました。

テレビのニュースもそうです。現代の中国の話題なのに、映像では70年代の人民服を着た人々が自転車の大群で走っているシーンが使われる。「今の中国はこんな姿じゃない!」と叫びたくなりましたが、それが日本の抱くステレオタイプでした。



−−確かに、当時は偏ったイメージの報道が多かったように思います。

段:そうでしょう? 日本で真面目に働き、活躍する優秀な中国人の姿が全く見えてこないことに焦りを覚えました。
「これでは真実が伝わらない。自分たちの陣地を持ち、日本社会に向けて真実を発信しなければならない」
そう決心したのです。記事を書き、編集することは私の特技です。ならば、中国語ではなく「日本語」で出版し、日本の主流社会に直接届けようと考えました。



−−それで、日本語での出版にこだわられたのですね。

段:その通りです。日本は「データ」を重視する社会ですから、感情論ではなく、まずは事実と数字を示そうと考えました。
そこで最初に取り組んだのがデータブックの「在日中国人大全」という人名録の作成です。六年かけてデータを集め、博士号取得者2,600人を含む、日本で活躍する中国人1万人のリストを作成しました。大学教員、研究者、経営者など、日本の発展に貢献している中国人がこれほどいるのだということを可視化したのです。

同時に出版したのが「『負笈東瀛写春秋―在日中国人自述』(中国人の日本奮闘記)」です。『在日中国人大全』は合計1000ページ、重さは1.6キロにもなりました。『負笈東瀛写春秋』は104人の在日中国人が、自らの汗と涙の奮闘を綴った大変貴重な一冊です。

(「在日中国人大全」)

(「負笈東瀛写春秋―在日中国人自述」(中国人の日本奮闘記))



−−1000ページ! インターネットも普及していない時代に、どうやってそれだけの情報を集めたのですか?

段:まさに「足で稼ぐ」作業でした。当時は個人情報保護法もなかったので、電話帳や大学の名簿を頼りに、一人ひとりにFAXを送り、ハガキで執筆を依頼しました。
パソコンもなかったので、最初はワープロで一文字ずつ打ち込みました。頻繁にフリーズしてはデータが消え、泣く泣く打ち直すことの繰り返しです。

集まった膨大な資料の重みで、借りていた古い木造家屋の床が抜けそうになったこともありました(笑)。
執筆と編集の過労で、2度も救急車で運ばれましたよ。その時初めて「日本の救急車は無料なんだ」と知ったくらいです。

まさに命がけで作ったこの本が、私の日本での「第一砲」となりました。NHKや朝日新聞でも大きく特集され、「日本で頑張る中国人がこんなにいるのか」と社会に衝撃を与えることができたのです。



「三把刀」から「文化の架け橋」へ

−−当時、日本に中国人が起業した出版社というのは珍しかったのでしょうか?

段:ええ、皆無でした。かつて華僑華人の職業といえば「三把刀(料理人、理髪師、裁縫師)」と言われていました。包丁、剃刀、ハサミの三つの刃物で生きてきた歴史があります。
日本には100年以上の華僑の歴史がありますが、中国人の出版社はありませんでした。そこで私が「先駆者」になろうと決心しました。

1998年、40歳で出版社「日本僑報社」を設立しました。大学の教員になる道もありましたが、それは私の代わりがいる仕事です。

しかし、日中をつなぐ出版活動は、私にしかできない仕事だと思ったのです。以来、「華僑華人の物語」や「中国の物語」を日本社会に届けることをミッションとしてきました。



−−出版業と並行して、「作文コンクール」にも力を入れていらっしゃいますよね。

段:出版だけでは一方通行になりがちですから、双方向の交流が必要だと考えました。
それが、中国人向けの「中国人の日本語作文コンクール」と、日本人向けの「日本人の中国語作文コンクール」(現・「忘れられない中国滞在エピソード」)です。

また、そこから派生して、「日中ユースフォーラム」という名称で、両コンクールの受賞者(日中の若者)がオンラインで、様々なテーマで意見交換する場も作っています。
フォーラムの参加者からは「民間交流こそ友好を支える力になる」との声も上がっていて、語学学習を通じて文化の壁を乗り越え、相互理解を深める意義を感じています。

特に、日中関係が良くない中でも、「忘れられない中国滞在エピソード」において、民間の人々が「事実に基づいて真実を求める(実事求是)」姿勢で、中国での感動を文字にしてシェアしてくれることは、非常に素晴らしいことです。

こうした草の根の体験記は、みなさんの反響も良く、日中の相互理解のために非常に重要な役割を果たしていると思います。
政治的な関係が冷え込んでいる時こそ、一般の人々の「心と心の通い合い」を可視化することが大切だと考えています。



公園から始まった「漢語角」と、対面の力

−−直接的な交流の場「漢語角(中国語コーナー)」も主催されています。これも長く続いていますね。

段:きっかけはコンクールに参加してくれていた日本の友人たちから「中国語会話を練習する場所がほしい」、「交流の場をなくさないでほしい」という切実な声が上がったのです。

当時、ネットで検索しても、中国の公園で自由会話できる「英語角」「日語角」のような場所が見つかりませんでした。それなら自分たちで作ろうと、西池袋公園の片隅で「漢語角」を始めました。
雨の日も風の日も、毎週日曜日の午後に欠かさず開催し、12月21日での開催は885回を迎えました。出版が「記録」なら、こちらは「ライブの交流」です。



−−これほど長く活動を継続されている秘訣、そして先生が考える「多文化共生」の極意とは何でしょうか?

段:秘訣は「知彼知己(彼を知り己を知る)」、つまり互いに顔を合わせて理解し合うことに尽きます。
私は頑なに対面での交流にこだわっています。コロナ禍でオンラインも普及しましたが、やはり画面越しでは「真情実意(本当の感情)」や安心感は伝わりにくい。信頼関係を築くには、同じ空気を吸い、目を見て話すことが不可欠なのです。

程永華・元駐日大使がおっしゃっていましたが、「交流がなければ理解はなく、理解がなければ友好はない」。まさにその通りだと思います。
たとえ意見が食い違っても、相手が何を考えているかを知ること。それがなければ共生は語れないのではないでしょうか。

(王毅氏と 写真提供:段氏)



−−時には摩擦も起きるかと思います。

段:摩擦は大いに結構です。例えば、日本人が麺をすする音を中国人は不快に思うかもしれないし、中国人の大声を日本人は怖いと思うかもしれない。でも、それは「文化の違い」だと知れば納得できます。

「引っ越したら隣にタオルを持って挨拶に行く」という日本の習慣も、今の中国の若者は知りません
知らないからやらないだけで、悪気はないのです。そうしたことを互いに教え合い、良いことも悪いことも腹を割って話すこと。
排他的にならず、一歩踏み込んで関わり合うことが、共生の第一歩だと信じています。

(故村山富市元首相と 写真提供:段氏)

(福田康夫元首相と 写真提供:段氏)



忘れられない「日本の温かさ」

−−来日してからの35年間、苦労も多かったと思いますが、逆に日本で感動したエピソードはありますか?

段:いくつかありますが、特に忘れられない「3つの物語」があります。これらは私の日本観を決定づけた出来事です。

一つ目は、来日初日の出来事です。巣鴨駅の公衆電話に、パスポートと全財産の1万円が入った鞄を置き忘れてしまったのです。当時の1万円といえば、友人が苦労して両替してくれた虎の子の大金でした。
改札で気づいた時、私は血の気が引きました。言葉も分からず、右も左も分からない初日に全財産を失うなんて。
慌てて電話ボックスに戻ると……鞄は誰にも触られず、そのままそこに置いてあったのです。あの時の衝撃と感動は、一生忘れられません。「日本とはこういう国なのか」と、魂が震えました。



−−それは奇跡的ですね。二つ目はどのようなお話ですか?

段:アルバイトを探していた頃の話です。言葉ができない私は、どこの面接に行っても「使えない」と断られてばかりでした。そんな私を雇ってくれたのが、上野駅構内にあった小さな居酒屋のご夫婦でした。
ご主人は、仕事だけでなく、暇を見つけては日本語の発音を一から教えてくれました。ある日、私がご主人の指定した日本語の文章を完璧に読めた時、彼は自分のことのように喜んで、店で一番高いメニューである「生姜焼き」を特別にご馳走してくれたのです。
「よくやったな!」と褒めてくれたあのご主人の笑顔と、生姜焼きの味。あれは私の人生で一番のご馳走でした。



−−心温まるお話です。三つ目はどんな物語でしょうか。

段:私がまだ中国で記者をしていた1984年、列車の中で偶然出会った日本人男性との縁です。言葉は通じませんでしたが、筆談で意気投合し、名刺を交換しました。
その後、1989年に妻が日本へ留学することになった際、ダメ元で彼に中国語の手紙を書いたのです。「妻が日本に行きます」と。すると彼は、新潟の長岡に住んでいたのですが、まるで自分の娘を迎えるかのように、生活の面倒を見てくれました。

ある日、妻が初めて長岡駅に到着すると、その日本人男性と奥さまのお二人が、妻の名前を大きく書いた紙を掲げて改札口で待っていてくださいました。その後、デパートへ連れて行ってくださり、服や靴まで買ってくださいました。

見ず知らずの外国人に、ここまで無償の愛を注いでくれる人がいる――。私にとって彼は、まさに「日本のお父さん」のような存在でした。そして彼が亡くなったとき、遺影に使われたのは、私が撮影した彼の写真でした。

こうした名もなき市井の人々の温かさに触れてきたからこそ、どんなに国同士の政治関係が冷え込んでも、私は民間交流を止めてはならないと強く思うのです。ニュースで流れる冷たい関係だけが、日中の全てではありませんから。



夢は「いつでも中国を感じられる場所」づくり

−−最後に、今後の目標をお聞かせください。

段:21年間続けてきた作文コンクールや交流フォーラムを、これからも着実に継続していくことです。継続こそが力なり、です。

そして夢としては、中国を愛する友人たちがいつでも集える、物理的な「交流の拠点」を作りたいですね。
現在も事務所の一角を開放していますが、もっと気軽に、お茶を飲み、映画を観て、若者たちが語り合えるサロンのような場所。そこに入れば「中国」を感じられ、リアルな人間関係が生まれるプラットフォーム。
資金的なハードルは高いですが、そんな場所を提供し続けることが、日中の架け橋としての私の生涯の仕事だと思っています。

以前、私の日本の友人が、新聞に掲載された私の活動記事を読み、次のような言葉を寄せてくれました。結びの言葉に代えて、最後に紹介させてください。

−−−

秋の日は特に落ちるのが早い。
日本には「秋の日はつるべ落とし」という諺があります。
私は、日中関係もこの「つるべ」に少し似ていると感じています。
上へ引き上げようとするときは、いつもゆっくりと、一歩一歩進むものですが、ひとたび滑り落ち始めると、一気に底まで落ちてしまう。
つるべの縄を手放してしまえば、瞬く間に落下してしまうからこそ、誰かがしっかりとその縄を握り続けなければなりません。
私は心から願っています。
これからは、日中両国の若者こそが、この縄を握り続ける存在になってほしい、と。

(写真提供:段氏)



・日本僑報社
HP:http://jp.duan.jp




(取材・文/劉聰/在日中国人ライター)

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