
1月11日、東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)で、第45期「日中学生会議」が主催するイベント「映画で見る『在日華僑と共生社会』」が開催された。
在日華僑4世である林隆太監督によるドキュメンタリー映画『華のスミカ』の上映に加え、現代中国社会を専門とする東京大学の阿古智子教授を招いた対談が行われ、学生や一般市民らが「アイデンティティ」や「多文化共生」のリアルについて熱心に耳を傾けた。
映画における「カメラという暴力」への葛藤と克服
上映された映画『華のスミカ』は、林監督が約10年の歳月をかけて制作した作品だ。
自身が華僑のルーツを持つことを知らずに育った監督が、父や祖母、そして横浜中華街の人々の姿を通して、自身のアイデンティティを探求する過程が描かれている。
上映後のトークセッションで、林監督は制作中の苦悩を吐露した。「カメラという『暴力』を持って相手の生活に入り込むことへの罪悪感があった」と語る。
特に、取材対象者が親切にしてくれるほど、「映画が公開された時、彼らに風評被害やネガティブな印象を与えてしまうのではないか」という恐れから、一時は撮影ができなくなるほど精神的に追い詰められたという。
しかし、映画にも出演している中華学校の費先生からの「やっていることは間違っていない」という激励をきっかけに、完成へと漕ぎ着けた経緯が明かされた。

「名札が変わるだけ」──国籍とアイデンティティ
トークセッションの焦点は、次第に「国籍」と「アイデンティティ」の定義に移行した。
林監督は、日本国籍を取得した父が語った「国籍が変わるのは名札が変わるようなもの。中身が変わるわけではない」という言葉を紹介。
「華僑」という言葉の響きに外国人らしさを感じるとしつつも、自身を「中華系日本人」、あるいは広く「アジア人」として捉え、特定の国や場所に固執しない姿勢を示した。
これに対し阿古教授は、人間としての普遍的な繋がりを模索する監督の姿勢に共感を示しつつ、研究者の視点から現実社会の厳しさを指摘。
「現実には地政学的な緊張があり、日中関係や台湾情勢の中で『あなたの立ち位置はどこか』と常に問われる」と述べ、個人の想いとは裏腹に、政治や歴史の問題が個人のアイデンティティに重くのしかかる現状を解説した。
揺れる社会と次世代への視点
質疑応答とディスカッションでは、参加者から切実な声が上がった。
横浜在住で30年になるという中国人女性は、「これまでは環境に馴染もうと努力してきたが、最近の制度変更や社会の空気により、子供たちの将来に不安を感じている」と吐露。
東京大学における留学生支援制度の変更や、昨今の外国人排斥的な風潮に対する懸念が会場全体で共有された。
また、かつて分裂していた中華学校同士が、現在ではイベントで交流を始めているという横浜中華街の「雪解け」のエピソードも紹介された一方で、地域社会における「波風を立てずに生きる」という在日コミュニティの処世術についても議論が及んだ。
「自分が自分であること」への自信
イベントの締めくくりとして、林監督は若い世代に向け、「何よりも大切なのは『自分が自分であること』。国籍やルーツはその次に来るもので、自分自身に自信を持ってほしい」とエールを送った。
また、自身の判断基準として「人として何が正しいか、周りの人が幸せになるか」を常に問いかけていると語った。
阿古教授は「マジョリティ側がマイノリティの視点に立ち、優しさを持てる社会が必要だ」と訴え、資源や権利を巡る争いが絶えない世界情勢の中で、構造的なサポートの重要性を強調した。
「日中友好へ学生の挑戦」を掲げる学生たちが企画した本イベント。
『華のスミカ』という個人の物語を題材にした映画を出発点に、国家間の対立を超えた「個」としての共生のあり方を、参加者全員で模索する貴重な時間となった。


【インタビュー】イベントを終えて──
「個」としての繋がりと、それぞれのこれから
イベント終了後、林隆太監督と阿古智子教授、そして、主催の第45期「日中学生会議」の岡田心美委員長、渉外担当・曾維笑さんに単独インタビューを行い、イベントの感想や多文化共生への想い、今後の展望などについて詳しく話を伺った。
<阿古智子教授 インタビュー>
――まず、本日のイベントを終えてのご感想をお聞かせください。
阿古教授:率直に色々なことを話し合えましたし、若い人たちも来てくださいました。国と国との対立というのは、現実として厳しいものがあります。
しかし、人間同士が繋がっていくことの大切さを改めて認識できた点は良かったと思います。
――現在、日中関係が厳しくなっている現状ですが、その中で私たち一般人にできることは何でしょうか。
阿古教授:アイデンティティ、つまり自分が何人(なにじん)であるかということは、現実の問題として資源の分配を考える上でも無視できません。どこの国に所属しているかによって有利・不利が変わることもあり、現実として「何人であるか」という事実は存在します。
中国の方は中国籍を持っており、中国という国家の利益も考えなければなりません。
日本人の私も、日本人として考えなければいけないことがあり、国益を考えたコメントをしなければならない時もあります。それが中国の国益とぶつかることもあります。
しかし、日本人である以前に、人間として大事にしたいものもあります。
一般の人間として、生活者の視点を持ち、同じように苦しんでいる人がいれば、できる範囲で助け合うことが大切です。
自分だけが良ければいいのではなく、お互いに苦しんでいる人たちのことを考えられるような社会システムが必要だと思います。
まさに理想と現実を行ったり来たりするようなものです。
――日中交流の重要性と多文化共生の秘訣について、お考えがあれば教えてください。
阿古教授:秘訣は、なるべく制限せず、自由にコミュニケーションできるようにすることです。
人間らしく色々な表現をしたいという思いは個々人が持っています。
そこでぶつかってしまうこともありますが、ぶつかった時にどうやってお互いに譲歩するかというプロセス自体が重要であり、意味があると思います。
大きな権力でそれを阻止せず、交流を続けることが大切です。
――最後にお伺いします。先生は長年、中国社会や現代中国社会について研究されてきたと思いますが、今後取り組みたいテーマはありますか。
阿古教授:今、少しずつ始めているのは「当事者研究」です。
メンタルヘルスや問題を抱えている人、あるいはトラウマや様々な傷を負っている人たちが、どうやってそれを克服するかというテーマです。傷の負い方は人それぞれで、政治や経済の問題の時もあれば、戦争や社会運動などでトラウマを抱えている人もいます。
うつ病なども社会的な原因や、親からの圧力、受験の圧力などが関わることがあり、人間は皆、心に傷を負っています。
極端な例を言えば、ロシアのプーチン大統領や中国の習近平国家主席、高市早苗氏であってもトラウマを持っているかもしれません。
例えば高市氏も、女性として首相を目指す中で、親に褒めてもらえなかった経験や大学進学時の制約などを克服するために、男性以上に男性らしく振る舞い、そのような面を前面に出しているのかもしれません。
どのような人であっても、権力者であっても傷やトラウマを負っています。そうした個人レベルでのトラウマの克服という視点と、国際的な平和をどう結びつけて考えるかという点に、個人的に取り組んでいきたいと考えています。
<林隆太監督 インタビュー>
――まずは今日の映画についてですが、2020年の製作から時が経ち、現在は2026年です。ご自身の考え方や感想、あるいは物理的な環境の変化などはありましたか。
林監督:環境の変化はありました。映画を製作し劇場公開をしていた当時は、自分の中で「中華街のコミュニティや団体には絶対に関わらない」と思っていましたし、関わりたいとも思っていませんでした。しかし、現在は福建省の同郷会などに関わってしまっています。
なぜそうなったかと言うと、親戚が意外とそこのコミュニティと接点を持っていたからです。
同郷会の名誉会長にあたる、以前会長を務めていた方が自分の叔父の従兄弟、つまり祖母の妹の子供のような、少し遠い親戚でした。父や叔父とは仲が良く、食事に行ったり自分も会ったりしていました。
ある日急に連絡が来て、「外の空気を入れた方がいい」、私と同年代の会員がいないことから、「『理監事会』に入ってくれないか」と言われました。
仕事もありますし、毎回参加できるかわかりません。何ができるかもわからないと伝えましたが、「それでもいいから協力してほしい、若者が欲しい」と言われ、気づいたら入っていました。
当時からしたら絶対に考えられないことですが、ある意味で運命には逆らえなかったという感じです。様々な経験を経て、考え方が変わったかというと、以前と比べて大きく変わったことはありません。
あくまで「自分は自分なんだ」というスタンスです。
――今回のイベントのテーマでもある多文化共生について伺います。林監督の考える多文化共生の秘訣があれば教えてください。
林監督:一般的に、日本人は外国の方と付き合うのが下手だと感じます。日本には独自のスタイルがあり、そこを崩しません。これが正解だと思いすぎていて、その「当たり前」が外国の方には通用しないことに気づいていません。
日本人には公共の規律やルールを守ることが一番だと考える人が多いです。「こうしないで」と言われたら「わかりました」と従いますが、他の国の方は一度言っただけでは守らないこともあります。
日本はその部分で世界的に見ればマイノリティなのですが、自分たちの意見をマジョリティだと思い込んで押し付けがちです。
「なぜ守れないんだ」と外国の方に対して鋭いベクトルを向けますが、自分たちの方が意外とマイノリティなのだと理解した方がいいです。
理解した上で、やはり「郷に入っては郷に従え」とも思います。日本には日本の文化や暗黙のルールがあるので、どうすべきかというと、まだ訴求ができていません。法や条例などの施策も足りていませんし、普及もしていません。
仕方がありませんが、日本は島国だという背景があります。例えばイタリアなどは侵略され続けてきた歴史の中で、隣に別の民族がいるのが当たり前でした。どのような距離感や関係性を築くかという精神的な部分が彼らはできていますが、日本人はそうではありません。日本はまだ方法論や文法を探っている、学んでいる最中なのだと思います。
今後はすぐにできるわけではありませんが、一人の日本人として思うのは、兄と自分でも性格が全然違うということです。兄は堅い人間で、もう少し外に目を向けて考えればいいのに、几帳面な印象があって、いわゆる「日本人らしい」タイプの人間です。私は「自分は自分」という感覚を持っています。
私個人としては、アメリカへ行った経験も大きいかもしれません。
その話をするとよく、「現地で差別されたのか」と聞かれますが、差別をされて辛かったという経験はありません。ただ、1ヶ月ほど人から話しかけられず、無視された時期はありました。
誰も自分に声をかけてくれないのです。カンザス州の田舎町で、人口6000人中、白人が90%以上という環境でした。
学校にいてもクラスメイトが誰も話しかけてくれない環境でしたが、1年後には多くの友人ができましたし、町には自分のことを知らない人がいなくなるほど存在が認知されていました。カリフォルニアに引っ越したあと、カンザスの友人から電話をもらった際に「町のスーパーやレストラン・ファストフードショップとかいたる所で『あのアジア人を最近見なくなったけど元気にしてるか?』とよく聞かれるぞ」と言われた経験があります。
仲良くなったきっかけの一つはパーティーです。
自分はお酒が好きなので、みんなの前で、ウォッカを一気飲みして強さを見せたら、周りにウケて「お前はチャンピオンだ」と認められました。
そこから話しかけられるようになり、サッカーをやっていたのでスポーツを通じて仲良くなったりしました。
なぜ最初に無視されていたかを考えると、周りにアジア人がいないから、クラスメイト側もどう接したら良いかわからなかったのだと思います。現に友人に「最初どう接したら良いかわからなかった」言われたこともあります。1ヶ月ほどの間に、自分からアプローチしていれば、また違った結果になったかもしれません。
パーティよりも前に、仲良くなったは他の州からバスケットボールの特待生として学校に在籍していた黒人たちで、「同じ色モノ同士、一緒に飯を食べよう!」とカフェテリアで声をかけられました。
印象的な思い出です。
また、友人・知人も増えていく中で、私は寮生活(寮シェア)をしていたのですが、彼らの自宅に招かれ、BBQパーティも含め食事をご馳走になったり、生活のいろんな面でお世話になった現地の人々がたくさんいました。
総じて「温かい人たちに囲まれていた」という印象です。
自分がアクションを起こし、意思を伝えることが大切だと学びました。
「言わなくてもわかるだろう」、「空気を読めよ」というのは通じなかったので。
アメリカでの生活が全て正解ではありませんが、日本の常識が世界の当たり前だと思わない方がいいですね。
多文化共生を目指すなら、自分たちが当たり前と思っていることを一度落ち着いて考え、それを基準にしては、うまくいかないと心得るべきです。
まだまだ課題は多いですが、文句を言うのではなく、その国の人(人間性)・文化・歴史・精神性をよく知ったうえで、自分たちがどうアクションを起こすかを自分に問いかけることで環境は変わるのではないかと感じています。
――最後の質問になりますが、今後撮りたいテーマはありますか?
林監督:実は、もう撮っていて、編集の段階に入っています。
テーマは「華僑の料理人」です。横浜中華街で生まれ育った二世と三世の2人のシェフの話です。
昔は職業選択の自由がなく、外に出て働けなかったため、中華街や中華街コミュニティ(華僑コミュニティ)の中で生きていくしかありませんでした。
しかし戦後になり、徐々に外で働くという選択肢が生まれていく中で、あえて、華僑コミュニティを飛び出し、日本人社会の中で料理人として生きる道を選んだ2人のドキュメンタリーです。
1人は東京・京王プラザホテル新宿の中国料理レストラン「南園」のシェフの方、もう1人は京都にある「一之船入」のシェフです。
魏禧之さんという方で、「中国料理アジアトップシェフ10」の殿堂入りもしています。
料理人としてだけでなく、個人としての人生を追った作品です。今年9月頃の公開を目指しています
〈第45期「日中学生会議」・岡田心美委員長、渉外担当・曾維笑さん、インタビュー〉
−− 本日はイベントお疲れ様でした。今回のイベントを終えての感想お聞かせください。
渉外担当・曾さん:自分自身、中国にルーツを持つ身として、華僑を扱ったイベントを開催したいと考えていました。今回のイベントでは、映画という媒体を通じて日本に暮らす華僑について知っていただくとともに、世代を超えて意見を交わす機会をつくれたことを大変うれしく思います。
ご参加いただいた皆さまが、それぞれ新しい視点や気づきを持ち帰ってくださっていれば幸いです。
思っていた以上に多くの方にご参加いただけたことも励みになりました。今回の学びを活かしつつ、今後も多様なテーマで企画に取り組みたいと考えています。
−−ぜひ、「日中学生会議」についても教えてください。
岡田委員長:「日中学生会議」は、外務省および(社)日本外交協会共催の全国学生国際問題討論会「ザ・フォーラム」の入選者によって発案され、1986年に日中関係に関心を持つ日本人学生有志により実行委員会が設立された学生団体です。以来、日中両国の学生による対話と交流を軸に、長年活動を続けてきました。新型コロナウイルスの影響で一時は対面開催が困難な時期もありましたが、オンライン形式を活用するなどして、交流と議論を途切れさせることなく継続してきました。
運営側としてのやりがいは、約40年にわたり受け継がれてきた歴史ある活動の一端を担い、次世代へと継承していく責任感にあります。
同時に、企画立案から渉外、会議運営に至るまで、すべてを学生自身の手で作り上げていくことに大きな充足感を感じています。此度開催したイベントについても、運営を担う委員が一から内容を検討し、準備・調整・当日の進行までを行っており、その一つひとつの積み重ねが活動を支えています。
一方、参加者の目線では、8月に行われる本会議において、日本側・中国側の学生が約3週間にわたり共同生活を送りながら議論を行う点が大きな特徴です。
学生という立場に縛られない存在だからこそ、腹を割った率直な意見交換や、価値観の違いを前提とした深い対話が可能となります。そうした中で得られる学びこそが、本会議ならではの魅力であり、活動の楽しさでもあると感じています。
−−第45期「日中学生会議」としての今後の目標はありますか?
岡田委員長:第45期「日中学生会議」では「糸〜次世代への継承、創造、伝播〜」をスローガンに掲げました。このスローガンには、これまで歴代の参加者が紡いできた日中学生間の交流と対話、その成果を次世代へと確実に継承すると同時に、現代および未来の課題に向き合う新たな日中学生会議のあり方を創造し、さらにその意義を参加者にとどめず、より広く社会へと伝えていきたいという思いを込めています。
学生による草の根の交流であること、そして学生のみで運営されていることは、日中学生会議の大きな特徴です。だからこそ、結論ありきではなく、対話そのものを重視し、意見の違いを丁寧に受け止めながら議論を積み重ねていくことができると考えています。
一本一本は細い糸であっても、それらが交わり、やがて一枚の布となるように、参加者一人ひとりが主体的に関わり、共により良い日中関係の未来を編み上げていく。
その一助となることを目標に、今後も活動に取り組んでいきたいと考えています。大変なことも少なくありませんが、一つずつ、私たちにできることを地道に積み重ねていくことこそが、日中学生会議のあるべき姿だと考えています。
−−−
「国と国」という大きな主語の前では、私たちは時に無力さを感じるかもしれない。しかし、阿古教授が語った「人間としての普遍的な繋がり」や、林監督が米国での実体験から導き出した「自分からアクションを起こす勇気」は、硬直した現状を解きほぐす確かな鍵だ。
そして、その鍵を次世代へと繋ごうとしているのが、「日中学生会議」の学生たちである。
彼らが掲げる「糸」というスローガンの通り、映画『華のスミカ』と今回の対話の場は、細くとも強靭な一本の糸として、参加者の心に「共生」への問いを紡ぎ出したと言えるだろう。
阿古教授の進める「当事者研究」、林監督が次回作で描く「料理人たちの生き様」、そして夏の本会議に向けて学生たちが編み上げていく「より良い日中関係の未来」。
それぞれの立場で「個」としての繋がりを模索し続ける彼らのこれからの歩みに、引き続き注目していきたい。
日中学生会議
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(取材・文/劉聰/在日中国人ライター)