
多文化共生や多様性の重要性が叫ばれる現代の日本。 しかし、その理念と現実の間には深い溝が存在しています。
そんな中、自らのルーツに向き合いながら、日本とガーナの架け橋として独自の道を切り拓いている方がいます。
「一般社団法人 Enije(エニジェ)」代表理事・矢野デイビットさんです。
1981年にガーナ人の母と日本人の父の間に生まれた矢野さんは、6歳で日本へ移住。
その後、両親の事情により、兄弟らとともに児童養護施設で育つという幼少期を過ごしました。
20代からモデル、ミュージシャン(兄弟ボーカルユニット「YANO BROTHERS」など)、タレントとして活躍。
2013年にはドキュメンタリー映画『HAFU』にも出演されました。
自身のアイデンティティを探るために訪れた母国·ガーナでの経験から、2007年に支援活動をスタートさせ、2012年には「一般社団法人 Enije(ガーナ語で『楽しむ、喜び、幸福』)」を設立。
多岐にわたる経験を活かし、全国の学校や行政での講演活動、さらには明星大学客員講師を務めるなど、教育や多文化共生に関する発信を幅広く行っています。
ガーナでの幼稚園・中学校の建設や運営サポートに尽力する一方、日本国内ではフットサル大会等のイベントを開催し、誰もが楽しく参加できるチャリティの形と、新たな「コミュニティ」の創出に取り組んできました。
今回のインタビューでは、これまでの経歴のほか、多文化共生が直面している「壁」についても赤裸々に語っていただきました。
代役から始まったモデルで活躍するまでの道
−−本日はよろしくお願いします。まず初めに、矢野さんの自己紹介についてお伺いします。大学での講義の際や初めて会う方に対して、普段どのように自己紹介をされていますか?
矢野デイビットさん(以下、矢野):
あまり意識していないですね。
見た目でルーツに関心を持たれるので、自分はガーナと日本のミックスであること、ガーナで生まれて日本で育ち、6歳の時に日本に来てからずっと日本で生活していると伝えています。
−−現在の活動についてお話しされることはありますか?
矢野:
むしろ今は活動を通じて、自分に関心を持ってもらうことが一番多いので、ガーナで教育に携わる活動をしていることや、その詳細を伝えています。
−−モデルをはじめとする芸能活動や音楽活動などもされていると思いますが、そちらは自己紹介ではあまり話さないのでしょうか?
矢野:
今でもたまにモデルの仕事は来るのですが、自分の中で「これからもモデルでやっていきたい」という意志が強いわけではありません。
それにモデルはあまりにも「運とご縁」というか。
自分はすごいラッキーなだけだったんですよ。
20歳の時に、ずっと憧れていたおしゃれなバーが近所にあって、バーテンダーとして働くことになったんです。でも当時、時給が600円か650円ぐらいで。
−−そんなに安くて大丈夫だったんですか?
矢野:
25年前ぐらいですが、めちゃくちゃ安かったです(笑)。
それを気にかけてくれた叔父(ガーナ人の母の弟)が、外国人専用のタレント事務所で働いていて。
「運が良ければ1回の仕事で、今のバイトの1ヶ月分もらえることもあるからやってみれば?」と誘ってくれたんです。
「そんな世界があるんだ」と、そこから始まりました。
−−別に最初からモデルになりたくて始めたわけではなかったんですね。
矢野:
むしろ高校まで体育会系だったので、カメラを向けられた瞬間にカッコつけるのが「気持ち悪い」と思ってたんですよ。 おすまし顔をするのが(笑)。
一つの生存戦略として挑んでみようかなと思ったんですが、最初の1、2年ぐらい仕事がなくて。 「そんなにおいしい仕事じゃないな」と思っていました。
ある日、兄のマイケルがとある雑誌モデルの代役に僕を誘ってくれたのが転機です。
その雑誌は30代向けで、衣装や雰囲気が、当時「20代なのに30代にしか見えない」と言われていた僕に偶然合っていて、そこから仕事が急増しました。
そこからCMとかいろんな仕事が、とんとん拍子に決まっちゃって。
大学3年生の頃には一人暮らしでも十分生きていけるくらいになっていました。
想像力で遊んだガーナの記憶と、日本での児童養護施設時代
−−少し時代を遡りますが、矢野さんはガーナから日本に来られる前の記憶はありますか?
矢野:
当時のガーナはおもちゃがなく、建築家の父が紙に描いたキャラクターを切って、遊んだり、紙の銃に砂を入れて飛ばしたり、靴下を丸めてサッカーボールにしたりと、想像力で遊んだおぼろげな記憶があります。
来日する直前、家に強盗が入ったことも覚えています。
−−日本に来てからの生活についてもお聞きしたいです。昔は結構尖っていたそうですね。今日お会いしてとても穏やかな印象を受けますが。
矢野:
めちゃくちゃ尖っていたと思いますよ。
ガーナにいた時は、両親が一緒に力を合わせて仕事をしていたのでどちらかと言うと恵まれていました。
でも、日本に来てから両親が上手くいかなくなって児童養護施設に入ってからは、生きていくために必死だったんです。
子どもは環境にアジャスト(適応)していくので、「ここで生きていくためにはどういう人間でなければいけないか」という中で、どんどん尖っていったというか。
自分では尖っているつもりはなかったんですけどね。
高校に入って、びっくりしました。
「こんなに穏やかに平和に生きている人たちがいるんだ」って。
それくらい、常にギスギスした場所にいました。
−−ルーツに関連するようなエピソードはありますか?
矢野:
施設の中で、最初は「クロンボ」とか言われたりもしましたが、毎日一緒に住んでいると兄弟みたいになってくるんです。
多少何か言われても、ムカついたらやり返せばいい、くらいに当時は思っていました。
どちらかと言うと、施設の中というより施設の外の社会での差別を感じることの方が多かったです。
例えば、子供の頃に年に1回くらい親と映画を見に行ったんですが、当時は立ち見もあったんです。
その時に、僕の目の前に別の親子連れが来て、その父親が僕の前に立ちました。
僕が映画が見えなくなって「あっ」と言った時、その人が振り返って「ごめんね」と言いかけたんですが、僕の顔を見て「なんだ外人か」みたいな顔をして、そのまま無視して、ずっと立ち続けたんです。
戸惑っていたら、うちの父親が「そんなことをして、大人として恥ずかしくないのか」と言ってくれました。
−−お父様、めちゃくちゃカッコいいですね!はっきりと言うのがすごいです。
矢野:
そうなんですよ。うちの父親はかっこいいんです。
その他のエピソードですが、僕は高校の時、強豪サッカー部に入っていたんですが、大会会場などに行くと、すれ違いざまに「外人が」とか、黒人差別的なことを言われたりもしました。
けど、喧嘩したら廃部とか出場停止になっちゃいますよね。
だから言われっぱなしで、「こういう風に思う奴らもいるんだな」と思うことにしていました。
「自分の内面を癒さないと人生は始まらない」意識改革のきっかけ
−−現在の穏やかなお人柄に至ったのは、いつ頃からなのでしょうか?
矢野:
結局、世界が荒れていても、自分の内面が落ち着いていれば平和に生きられます。
世界を変える前に自分の内面と向き合い、自分が持っている傷を自分で癒していかないと、人生が始まりません。
いじめっ子からは逃げられても、自分という人間からは逃げられないじゃないですか。
過去に囚われて生きていると、物事が上手くいっても苦しみから解放されないんです。
それに気づいて、自分自身の悩みと向き合って変えていかなきゃなと思うようになりました。
−−具体的なターニングポイントはあったのですか?
矢野:
20代前半に初めてガーナへ帰った時です。
僕は自分を受け入れてくれる場所をずっと「外の世界」に探していました。
現地ではみんな優しかったんですが、差別する人も一部いました。
そこから、「外の世界に答え(楽園)を探してはいけない」と悟ったんです。
それまで、日本でも味方は常にいたのに、僕を差別する人ばかりに心を支配されていました。
「これからは温かく向き合ってくれた人たちとの関係を大事にしよう」と思い、孤独や歪みが解けていきました。
それからガーナは自分にとって、人生で大事なことが学べる場所になりました。
「20代は人生に挑め」父の言葉と、ガーナの少年との出会い
−−大学時代は進路で悩まれていたとお聞きしましたが、どんな状況だったのですか?
矢野:
実は高校までやっていたサッカーから離れた時、自分が打ち込むものがない人生に初めて出会い、その空虚さや虚しさに耐えられなかったんです。
「また情熱を込めて生きていけるものに出会わないと魂が腐ってしまう」と必死に探していました。
でも、なかなか見つからず、諦めて、普通に就職してサラリーマンになるのも悪くないだろうと思ったんです。
そんなある日、普段は放任主義の父親から呼び出されました。
父は笑ってこう言ったんです。
「お父さんは本当は考古学者になりたかったし、色々なことをやりたかった。就職して安定を選んで、大人になってから後悔した。せめて20代は、自分の人生がどれだけ可能性があるかを知るために挑みなさい。サラリーマンは30歳からでもなれる。20代は自分の人生に挑んでごらん。お前にお願いしたことはないが、わがままを言わせてもらうなら、サラリーマンにはなるな。まずは挑め」と。
−−ここでも出てくるお父様のカッコよさですね。それを言える親はなかなかいないと思います。
矢野:
そうですよね。 それで、人生を変えてくれたガーナに25歳の時に再訪しました。
日本に帰国する最後の週末に、友人たちとレストランに行ったんです。
そこで、なぜか僕にだけ「お金ちょうだい」と言ってくる少年が現れました。
顔も見ずに断っていたんですが、あまりにしつこいので「次来たら怒って追い返そう」と思って顔を見たら……少年の時の自分にそっくりな顔の子だったんです。
フラッシュバックしました。施設で肌の色のことを言われて孤独で嫌な思いをしていた時、見て見ぬ振りをする大人たちを「絶対こんな大人にならない」と恨んでいました。
「この子は、大人なんてこんなもんだと絶望しているに違いない。自分が経験して嫌だと思ったことを次世代に渡すなんて、こんな罪深いことはない」と強く思ったんです。
それから僕は考え込んでしまって、帰りの飛行機でもずっと「何ができるんだろう」と考えていました。
一つはっきりしていたのは、道を踏み外す施設の仲間もいた中で、僕は、厳しい体育会系の環境に入って、「教育」に出会ったことで救われたということです。
そこから「教育」の重要性というものを強く感じていたので、学校建設を考えるようになりました。
「楽しんだ対価をチャリティに」仲間たちと乗り越えた鬱と団体の設立
−−そこから「Enije」の設立にどう繋がっていくのでしょうか?
矢野:
僕には当時、毎週末ホームパーティーをしている気の合う仲間たちがいました。
ガーナから帰ってきて、まずその仲間たち30人くらいを集めたんです。
事務職の人、パーソナルトレーナー、お笑い芸人、起業家のサポートをしている人など、年齢も僕のプラスマイナス3歳くらいの多様な人たちでした。
そこで「これからガーナの教育支援をしていきたいと思っている。社会人経験ゼロで何も分からないから、力を貸してほしい」とお願いしたんです。
みんな、終電まで「どうやったらいいか」を真剣に話し合ってくれました。
−−素晴らしい仲間ですね。そこからどう形になっていったのですか?
矢野:
その夜に「楽しんだ対価がチャリティになる仕組み」というアイディアが出て、単なる寄付だけではなく、イベントなどの利益で活動する現在の形ができました。
実は、今まで僕たちが活動してきて集まった資金の多くは、こうしたイベント収益がほとんどなんです。
−−モデルなどのお仕事との両立はどうだったのでしょうか?
矢野:
芸能界は刺激的でしたが、自分には合っていないと思っていて、正直なところ辞めるきっかけをずっと探していました。
でも当時はCMの好感度ランキングに入ったり、週刊誌に取り上げられたり、街を歩けば、「テレビ出てる人だね」と声をかけられたりするくらいは顔が知れてしまって。
辞めたら自分の人生はこれからどうなるんだろうと怖かったんです。
活動を並行して5年くらい経った頃、ついに芸能活動を辞める決意をしたんですが、最後の1年間は鬱になってしまって。
芸能界を辞めた後も、3年くらい全く動けなくなってしまいました。
−−動けなかった3年間、Enijeの活動はどうなっていたんですか?
矢野:
メンバーが団体を支え、継続してくれました。
それまで僕は、「自分でやらなきゃ気が済まない」性格だったんですが、「人を信じること」「人にお願いすること」「みんなでやることがどれだけ大きなものを成し遂げるか」という、人の力の偉大さを学ばせてもらったんです。
学校建設の苦難と母の力
−−ガーナでの学校建設のプロセスや苦労について教えてください。
矢野:
当初ガーナで色々な人に話はしたんですが、信用がなく、僕が実際にガーナで「幼稚園」を作るまでは誰も耳を傾けてくれませんでした。
幼稚園ができた時に初めてみんな座って話を聞いてくれて、「お前がマジなのがわかった。次は何をやりたいんだ?」と。
僕は「中学校を作りたい」と伝えました。
−−現地でのマネジメントは大変そうですね。
矢野:
ええ、本当に信じられないことが起きます。
やっと貯めたお金で、3ヶ月分の着工用のセメントやブロックを買って現場に置いたら、次の日には全部盗まれて無くなっているんです。
それがガーナでは日常茶飯事で、現地の人は「ごめん、無くなっちゃった」と。
でも、それを日本の人たちに説明してもなかなか理解されません。
「デイビットがちゃんと管理してないからそういうことが起こるんだ」と責められます。
僕は日本とガーナを行き来している唯一の人間なので、その板挟みには苦労しますね。
−−現地の様々な調整には、お母様の存在も大きかったとお聞きしました。お母様は「クイーンマザー」だそうですね。
矢野:
そうですね、お母さんには色々助けてもらっています。
もともとアフリカには「王族」がいます。王族が各地にいるんです。
一部では、100%血筋でしか選ばれません。
一つの地域に男女一対の同じ権力を持った王様がいます。
男性を「チーフ」、女性を「クイーンマザー」と言います。
学校の土地を買う時も、その土地を管理している王様に関する様々な情報がお母さんに入ってくるんですよ。
−−なかなかの権力者ですね…!現地の活動の中で印象に残っている出来事はありますか?
矢野:
当初は、現地の学校の先生たちの中には本当にひどい先生もいて。
学校をサボったり、子どもたちを叩いたりする先生もいました。
最初の数年間は喧嘩しまくりでした。
一時期、先生たちからは「デイビットは避けよう」みたいな空気があったくらいです。
実際に中学校が建設されていく中で、僕ももう怒ってしまって。
先生たちの前で言ったんです。
「何百万円も集めてここまでやってきたけど、ここでもうはっきりさせたい。嫌々やってるなら、今辞めよう。僕が責任を取って寄付した人々にお金は返すから。でも、やるんだったら、本当に子どもたちの未来を変えるような学校を作ろう」と。
−−現地のマネジメントの難しさが浮き彫りになるエピソードですね。
矢野:
それを言った帰りの車の中で、お母さんが僕にこう言ったんです。
「今日の話、今までで一番良かった。多分あの人たちは、これからすごく意識が変わっていくと思うわ」って。
僕はいつも通り怒っただけだと思っていたんですが、本当にそこからガラッと先生たちの様子が変わりました。
それから数年後に、ガーナのイースタン州で、僕たちの学校が「ベストスクール」に選ばれるまでになったんです。
これが今までで一番印象に残っているエピソードですね。
それからは、先生たちの方から僕に「教育委員会のこういう人と関わるとできることが増えるから、次に来た時に会いに行こう」とか、積極的に関わってくれるようになりました。
ここまでやってきて良かったと思いました。
「競争」が「共生」を生む? 「地球大運動会」で見えたもの
−−国内でも様々なイベントを開催されていますね。
矢野:
はい。以前、いろんな人種の人などに参加してもらう「地球大運動会」というイベントをやったんです。
そこで面白かったのが、ジェスチャーゲームなどをやると、国によって文化が全然違うことが浮き彫りになるんです。
例えば「野球」のジェスチャーをした時、野球が存在しない国の人はそれが「ゴルフ」に見えてしまう。
「ゴルフじゃん!」「ちげーよ野球だよ!」「うちの国に野球ねえから!」って話になるんです(笑)。
−−なるほど、前提が違うんですね。
矢野:
そうなんです。
他にも、いろんな国の人が参加してくれて、実は聾(ろう)者の方も何人か参加してくれたんですが、チームに分かれてムカデ競争をしたんです。
どうやって「いっせいのせ!」って言うんだろう?どうやって足並みを揃えるんだろう?と思っていたんですが、みんなできたんですよ(笑)。
−−それはすごいですね!言葉の壁も越えて。
矢野:
僕らは普通に議論をしているだけだと、「多様性って難しいよね」で終わってしまいます。
でも運動会で「競争」して、「よーいドン!」でまずやってみると、できるかできないかじゃなくて、工夫からスタートするんです。その瞬間にいろんなものが詰まっているなと思いました。
勝つことが目的になると、勝つために嫌でも互いに協力しなきゃいけなくなるんです。
一つのゴールのために目的を一つにする。
そうすると「協力する」「一緒に生きる」「共生する」という言葉の意味が、行動と経験を通して身体に染み込んでいくんです。
共生の困難さ──「国に帰れ」と言われる日本社会と移民問題
−−講演などで、「多文化共生」についても発信されていますが、日本社会における多様性や共生の現状をどう見ていらっしゃいますか?
矢野:
ありきたりですが、明確に「二極化」していっています。
講演活動を始めて十数年になりますが、3年前くらいまでは、皆さんの意識がゆっくりと共生に向けて良い方向に変わってきているのを感じていました。
でも2、3年前から「移民反対」や「外国人はいらない」という声が強くなり、意識が分断されていったと思います。
−−その原因は何だと感じていますか?
矢野:
移民の問題が世界で大きくなっていることが原因だと思います。
例えば一部のイスラム教徒が過激なことをやっているというニュースが出ると、「やっぱり移民はダメだ」となってしまう。
でも、どんな危険な場所に行っても、悪い人は全体の1、2割なんです。
僕自身、昔ガーナで飛行機を逃して、絶対に近づいちゃいけないと言われるスラム街の人の家に泊めてもらったことがあります。
彼ら夫婦は床に寝て、僕をベッドで寝かせてくれました。
そういう経験があれば見方が変わるんでしょうけど、みんな知らないから、「リスクがあるなら、入れなくていいじゃん」となる。
これは非常に日本的だし、人間的な反応だとも思います。
−−矢野さんご自身も、日常的に共生の難しさを感じることはありますか?
矢野:
たくさんあります。
例えば、今でも引っ越しで不動産を探す時、電話で話がまとまりかけていても、僕の方から、「後で面倒なことになりたくないので、僕の見た目やルーツ(アフリカの母と日本の父)を大家さんに先に伝えてください」と確認すると、かなりの確率で断られます。
−−にわかには信じがたいです。海外なら訴訟問題ですよね。
矢野:
日本ではまかり通っているんです。
ついこの間は、歩いていたら、前から来たおじいちゃんに突然「国に帰れ、この野郎!」と言われました。
そういう出来事に直面すると、共生することの難しさは常に生まれているし、元々あるんだなと感じます。
−−相手を「一人の人間」として見るにはどうすればいいのでしょうか。
矢野:
色んな人と出会い、関係性を大事にして育っていく人が、現代の日本社会では少ないのかもしれません。
大人になってガーナに行くと、本当に悪い人にも会います。
でも、彼らも、家族のことは大事にしていたり、僕のことは騙さなかったりする。
権力者に至っては「捕まってないからいいじゃん」とばかりに、堂々とその両面を見せてきます。
僕はそれを見た時、人種やバックグラウンドで決めることから卒業して、一人の人間の中にある「善悪のバランス」と距離感を取らなきゃいけないと学びました。
誰かから見たら純粋な悪魔でも、僕から見ればその中にも光が存在している。
僕は「1人の人間の中には100人の住人がいる」と思っています。 その100人の住人のうち、誰と出会い、誰と仲良くなるかによって関係性が築かれていくんです。

必要なのは「コミュニティ回帰」とカロリーを使う人付き合い
−−日本社会における「共生」の今後について、どう予測されていますか?
矢野:
今後、外国人をめぐる絶対的に大きな問題がたくさん起こると思っています。
治安を守ることも重要になってくるでしょう。
その中で、警察や司法制度に頼りきるのではなく、抑止力を持つ「強いコミュニティ」を作っていかなきゃいけないと思っています。
すごく偏った言い方になりますが、「コミュニティ回帰」です。
「このコミュニティはまとまっているから、悪いことをしたらまずいな」と思わせる力が必要だと思います。
−−文明的には少し後退するようなイメージですね。
矢野:
ええ、三歩下がることになります。
でも、ガーナでも一部の地域では、警察はお金でしか動かないし、司法は機能していない。
そこで治安を守っているのは、町の強い男たちが集まって悪い奴をこらしめるするという「地域のコミュニティ」なんです。
何も信じられなくなったらそうしていくしかない。
日本もだんだんそうなっていく可能性はあるかもしれません。
これからは自分たちで、人としての尊厳を尊重すべく、互いのコミュニティを守る仕組みを作らないとダメだと思います。
安心が担保されてはじめて心に余裕が生まれる人が多いと思うんです。
そうすれば無駄な批判に対する抑止力が生まれます。
異文化の人たちも馴染もうと思えば、そこに関わらざるを得なくなります。
その中で異文化の人たちとも交流しながら、自分たちの子どもが安全に暮らせる環境をコミュニティの人間たちで作るのが良いと思います。
今のままでは、異なる民族や宗教間でお互いに憎み合う社会になってしまう種が生まれるかもしれません。
−−コミュニティを通じた異文化との「手間をかけた」関わりということですね。
矢野:
そうです、手間なんです。
文化と文明は手間でしか築き上げられないんです。
効率化や利害でしか物事を考えられない現代では、非常にカロリーが消費されることですが、それしかないと僕は思います。
とはいえ、この「コミュニティ回帰」や、これから起こりうる可能性についてお話しするだけでは、僕の本当に目指したいところが届かないままになってしまうと思うので、もう少し詳しくお話しさせていただきます。
−−ぜひお願いします。
矢野:
世界至る所に問題があり、日本も同様です。
そこに多様な文化を持つ人たちが集まれば、摩擦も起きます。
でもそこで「やっぱり難しいよね」で語りを終える人間にはなりたくないんです。
−−あくまで前向きに関わっていくということですね。
矢野:
はい。
僕はこれまで、教育が自分を変えてくれたことからガーナで学校を作ることに挑み、日本では児童養護施設を出た若者たちと関わり、そして大学生をガーナやタンザニアへ連れて行き、同じ景色を見て感じたことを分かち合う経験をさせてもらってきました。
より良い未来を信じて行動し続けること、それが僕のアイデンティティだと思っています。
これからも未来へ向かって、明るい側を信じる人間でありたいと思っています。
−−その上で、どのようなコミュニティが理想なのでしょうか。
矢野:
日本がコミュニティを取り戻すことはいろんな意味で大切ですが、僕が一番大切だと思っているのは、日本人のコミュニティと、外国籍の方々のコミュニティが交わる場所をつくること、そしてそれを守ることです。
もちろん、今の社会性や時代性のなかでは本当に難しいことで、僕もまだはっきり見えているわけではありません。
それでもやっぱり、コミュニティは自分たちを守ってくれるものであって、違う世代の人たちを繋いでいくとても大切なものだと思ってしまうんです。
同時に、マジョリティとマイノリティが交わる「交差点」が絶えずあること、交わる機会が設けられていることが重要です。
そんな場所がこれから生まれて、しかも育っていったら素敵だなあ、と思います。
−−とはいえ、先ほどおっしゃったように摩擦も起きるわけですよね。
矢野:
きっと揉めることもあるでしょう。
でも、コミュニティの関わりと交わりがあることで、摩擦や行き違いを通して互いに学び合うきっかけになり、つながりを絶やさずにいられる気がするんです。
ただ、この話をきれい事だけで終わらせたくないという思いもあります。
−−きれい事だけではない、とは?
矢野:
僕は、自分の大切な人を傷つけようとする人とは、どこの国の人であっても、日本人であっても、同じ街やコミュニティにいるのは難しいと思うんです。
もちろん、時間が必要なこともあります。
そして、間違ったことが起きたときには、どこの国の人であっても、マイノリティであっても、同じように責任を引き受けることが必要だとも思っています。
大人である以上、人は背負うべき責任がある。
自分で言っていて身が引き締まる思いですが、そう感じています。
交差点としての「学校」と、分断をつなぐ「宿命」
−−その「交差点」の中で、矢野さんが特に大きな意味を持つと考えている場所はどこですか?
矢野:
交差点のなかでも、僕が特に大きな意味を持つと思っているのが「学校」です。
ここで、僕自身の経験を少しお話しさせてください。
僕が最初に日本に来たとき、通っていたのはインターナショナルスクールでした。
8歳から日本語の勉強を始め、10歳で日本の公立学校に入りました。
−−事前の日本語学習の期間があったのですね。
矢野:
そうなんです。
8歳のとき日本語を教えてくれた2人の先生の授業の中には、僕を外に連れ出して、実際のものを見せながら日本語を教えてくれる日もありました。
あの学び方は、今振り返っても、本当に豊かな時間だったと思います。
日本の学校に入ってからは、いろんなことがありました。
でも幸運だったのは、ケンカをしてもそれが友情を深めていくといった経験を何度も重ねられたことです。
それが、日本の社会に自信を持って入っていくきっかけになりました。
−−最初から日本語がわからない状態で飛び込んだわけではなかったことが大きかったと。
矢野:
日本語が話せないまま学校に入るのではなく、1年間きちんと日本語を学んでから日本の学校に入れたこと。
これが僕にとって決定的に大きかったと今でも思っています。
もちろん性格的な部分もあるとは思いますが、それ以上に、言葉は自分の意思を表すためのとても大切なツールです。
日本語がわかるようにサポートしてもらい、準備ができた状態で日本の学校に入れたことは、本当に大きかった。
今振り返ると、たくさんの大人たちが、僕をそうやって支えてくれていたのだと思います。
−−学校が、社会に入るための交差点になっていたのですね。
矢野:
学校は、外国から来た子どもが日本の文化に入っていくための、とても大切な扉なんです。
だからこそ学校は、疎外感を感じる場所ではなく、社会やコミュニティとのつながりを深め、自信を育てるきっかけになる場所であってほしい。
でも、日本に労働者として来る外国籍の方々の子どもの教育をどうするかという話になったとき、今はまだそうなりきれていないと強く感じます。
−−現状の課題はどこにあるのでしょうか。
矢野:
子どもたちは自国の友達と一緒にいたかったはずですし、仕方ないところもありますが、日本語と母語の両方を通して日本の学校環境に触れ合うサポートがあまりにも少ないのが現状です。
これは子どもに限ったことではない問題でもあります。
−−そうした教育の問題に対して、矢野さんご自身はどう向き合っていくのでしょうか。
矢野:
正直にお話ししておきたいのですが、この教育の問題について、僕はまだ具体的な行動を起こせていません。
問題意識はあっても、自分の手で何かを始められていないのが現状です。
だからこれは、語って終わる話ではなく、僕自身のこれからの「宿題」だと思っています。
−−これからの活動の原動力になるテーマですね。
矢野:
良い未来のために自分は何をすべきか、どう考えるべきか。
何度考えても、僕はここに戻ってくるんです。
そのアイデンティティこそが、僕にとって一番大事なものです。
そしてそれは、僕自身が日本という国で学んだことでもあります。
僕を日本の社会へ導いてくれた大人たちがいました。
あの2人の日本語の先生も、日本の学校で出会った友人たちもそうです。
彼らへの恩返しは、僕が分断をつなぐ人であること、信じること、行動を起こすこと。
それが僕の宿命であり、運命だと思っています。
「教育は街づくり」──ガーナでの私立全寮制学校設立と、一生をかけて実現したい社会
−−最後の質問になりますが、今後のEnijeのビジョンやご自身の目標を教えてください。
矢野:
何年かかるか分かりませんが、ガーナで「私立の全寮制学校」を作ることです。
自給自足できる農業等も取り入れ、知識だけでなく経験を血肉に変えるような教育をしたいです。
なぜ私立かというと、以前、公立の中学校を作った際は、良い学校になりすぎて、それを良く思わない人たちから嫌がらせを受けたり、優秀な先生が引き抜かれたりしてしまったんです。
政府の意向で、10年築き上げたものが壊されるなら、先生や生徒を守るために、ちゃんと「蓄積」ができる私立の学校を作らなければいけないと思うようになりました。
また、教育は街づくりなので、優秀な子どもを育てても、村に仕事がなければ宝の持ち腐れです。
彼らが大人になった時にそれを生かせる社会を作ることも、一生をかけて実現したいです。
日本では、フットサル大会や「地球大運動会」など、文化交流ができるイベントを柱として、1人でも多くの人が豊かに繋がり、それが楽しくチャリティに繋がるコミュニティを作りたいですね。
−−本日は貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。

矢野デイビットさん
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【HYAKUYOU編集部】