日本大学助教・藤本澄江さん
「差別を経験したからこそ見える景色がある。語学教育と多文化共生への思い」

2026.07.24
(藤本澄江さん)



日本大学で助教を務め、語学と文化の架け橋として教鞭をとる藤本澄江さん

国際協力NGOであるICA インターナショナル文化交流協会の理事も務め、次世代の女性リーダー育成にも尽力されています。

中国で生まれ、9歳で日本へ渡った「中国残留孤児二世」である彼女は、幼少期から日本と中国の両方で凄惨な差別を経験してきました。

社会の最も厳しい場所から自らの力で道を切り拓き、現在の大学教員という立場を掴み取った藤本さんの人生には、どのような苦難と気づきがあったのでしょうか。

今回は、藤本先生の生い立ちから、多角的な視点を養う独自の中国語教育への情熱、そしてICAインターナショナル文化交流協会での活動を通じた多文化共生への思いまで、お話を伺いました。




語学との出会いと、多角的な視点を育む教育


--本日はよろしくお願いします。まずは、先生の幼少期や語学との出会いについて教えていただけますか?

藤本澄江さん(以下、藤本):
よろしくお願いします。

私は9歳まで中国に住んでいました。

母親が中国の人なので、幼い頃から家の中はずっと中国語でした。

そのため、中国語の発音に関しては今でも忘れませんし、ネイティブの方からも「中国人ですか?」とよく言われます。

ただ、9歳で日本に戻ってからはすべて日本の教育を受けました。

実は私は中学生の頃から英語の勉強に夢中になり、大学時代にはカナダへ約9か月間の語学留学をした経験もあります。

当時はアメリカやカナダの文化に強く憧れていて、「移住したい」と思うほど英語漬けの日々でした。



--中国語よりも英語に没頭されたのですね。

藤本:
そうです。

英語を学ぶ中で、アメリカの「人種のるつぼ」とも言われる多様な人々が共生する社会に憧れを抱くようになりました。

実際にカナダやアメリカ、後にはイギリスにも行きましたが、そこでアジア人として差別も受けました。

イギリスに着いた初日に、現地の若者からひどい人種差別的な暴言を吐かれたこともあります。

でも、そうした経験が私の財産になりました。

「私が憧れていた欧米の国にも、こういう悪い面があるんだな」と客観的に見ることができるようになったからです。

今では英語をすっかり忘れてしまいましたが、かつてはイベントで一日だけ、デンマーク大使館で大使や大使夫人の為に通訳をしたこともありました。

それほど英語が好きでした。



--その客観的な視点が、今の教育の現場にも活きているわけですね。

藤本:
おっしゃる通りです。

私は大学で中国語を教えていますが、今の日本の学生たちは「なんとなく中国が嫌い」という偏見を刷り込まれていることが多いんです。

メディアの影響も大きいと思いますが、きちんとした理由もなく嫌っていることが一番厄介です。

100%良い国も、100%悪い国もありません。

私は学生たちに、同じ物事でも日本からの視点と中国からの視点の両方を与え、俯瞰的な目を育てたいと思っています。



--先入観を持たずに、まずは自分の目で確かめることが大切だと。

藤本:
その通りです。

だから私は学生たちに「春休みや夏休みの長い休みを使って、中国でもどこでもいいから旅行に行って、世界を見てきなさい」と勧めています。

メディアの報道と実際の現地の自由さや豊かさのギャップを、自分の目で見て体験してほしいのです。

たとえば、中国の「臭豆腐(チョウドウフ)」や「麻辣湯(マーラータン)」の食品問題の話も授業でします。

臭豆腐のあの強烈な臭さは、実際に行って嗅いで、食べてみないとわかりませんよね。

食べてみて「これは無理だ」と思うならいいんです。

でも、正しい情報も知らないうちから、食べもしないで「あんなものを食べる国はおかしい」と非難するのは間違っています。

自分の足で現地を歩き、自分の舌で味わってから判断できる大人になってほしいと願っています。




残留孤児二世としての数奇な運命と、両国での「差別」


--先生のそうした「物事を中立に、平等に見る」という姿勢の根底には、ご自身のアイデンティティや生い立ちが大きく影響しているとお見受けします。ここから、ご家族のお話、残留孤児二世としての背景について伺ってもよろしいでしょうか。

藤本:
少し辛い話になりますが、お話ししますね。

私の父は中国残留孤児です。

終戦を迎えたとき、父はまだ3歳でした。

当時、引き上げの混乱の中で、日本人の集団が小川の近くで休憩していたそうです。

父は裸足で歩いていました。

そこにいた私の祖母(父の母)は、父よりもさらに小さな乳飲み子を抱えていました。

その様子を見に来ていた中国人のなかに、父の養父となる人がいました。

養父には子どもがおらず、日本語を話せる親戚を通じて「あの子をもらえないか」と声をかけたそうです。

そして祖母は、涙を流しながら父を促し、中国人の家庭に引き渡しました。



--3歳の我が子を見ず知らずの他人に託すというのは、現代の感覚では想像を絶します。

藤本:
私は同じ女性として、正直に言うと祖母を許せない気持ちがあります。

どうして自分のもとに残して、命を共にしなかったのかと。父は言葉もわからないまま、敵国である中国人の家庭に入れられました。

夕方になると外に出て、遠くを見つめながら実の母親を待っていたそうです。

さらに悲惨だったのは、養父母に実の子どもができたことです。それ以降、父は「いらない子」として扱われました。

5歳の頃から、極寒の冬に毎朝一番に起きてオンドル(床暖房)の火を起こし、家族のために働き続けました。

小学校に行かせてもらえたのも、弟が学校に行く年齢になってからでした。きっと、「兄が行っていないのに弟だけ行かせるのは体裁が悪い」という理由だったのしょう。



--まるでドラマのような、あまりにも過酷な幼少期ですね。

藤本:
父は16歳から本格的に働き始め、家計を支え続けました。

性格も温厚で真面目だった父は、40歳になった頃、会社から共産党員に推薦されました。

党員になれば出世コースに乗ることができます。

しかし、何度推薦されても公安局の審査で落とされてしまいます。

不思議に思った会社の人が公安局に確認した結果、理由は「日本人だから」でした。

その時、父は初めて自分が日本人であることを知ったのです。

父の顔は真っ青になり、立っていられないほどのショックを受けていたそうです。

「中国ではもうこれ以上出世できない。一生底辺で生きていくしかない」と悟った瞬間でした。

そこから周囲の態度も手のひらを返したように冷たくなり、「小日本子(シャオリーベンズ)」と罵られるようになりました。

育て親の養母でさえも「党員になろうとしなければ、こんなことにならなかったのに!恩知らずめ!」と罵るようになりました。



--そこでようやく日本政府による肉親探しを知り、日本へ渡ることになったのですね。

藤本:
はい。中国ではもう生きていけない、という思いがありました。そして、母の強い勧めもあって、父は日本へ肉親探しに向かいました。

結局肉親は見つかりませんでしたが、日本政府からの支援もあり、私たちが日本へ帰国することになったのは私が9歳の時でした。

よく覚えているのですが、ある時、母から「あなたのお父さんは日本人で、私は中国人。あなたは日本人になりたい?それとも中国人になりたい?」と聞かれました。

日本のことを全く知らなかったから、私はとっさに「中国人になる!」と答えました。

すると、母は、「お父さんは誰一人家族がいなくて可哀想だから、お父さんの為に日本人になってあげない?」と提案されました。

その言葉を聞いて、私は「お父さんのために日本人になる!」と答えました。

だから私は日本人なのです。

選択一つによって、今頃の私は中国人として生きていたかもしれません。

「国籍とは何か」「中国人とは何か」「日本人とは何か」を考えると、私にとって国籍とは、結局のところ一枚の書類にすぎないという結論に至るのです。

私にとって大切なのは「⚪︎⚪︎人」であるかどうかではなく、どのような「人」であるのかという点なのです。



--日本へ帰国してからは、平穏な生活が待っていたのでしょうか?

藤本:
いいえ、全く逆です。

中国では「日本人」として差別され、出世の道を絶たれた父でしたが、日本に帰ってくると今度は「中国人」として激しい差別と偏見に晒されました。

私も言葉がまったくわからないまま日本の小学校に入れられました。

テストのとき、担任の先生に「言葉がわからないから絵を描いていいよ」と言われてテストの裏に絵を描いていたら、別の先生から「試験中になにをしているんだ!」と理不尽に怒鳴られたりしました。

親の通訳として、子どもながらに嫌な大人たちの対応の矢面に立ち、社会の一番底辺から一歩一歩這い上がってきました。



--戦争の被害だけでなく、日本へ帰国してからの社会の仕組みや冷遇によっても、尊厳を奪われてしまったのですね。

藤本:
はい。そしてその差別や偏見は、父の人生の最期まで影を落としました。

実は父はコロナ禍の最中に亡くなったのですが、ウイルスで亡くなったわけではないんです。



--と言いますと……?

藤本:
きっかけは骨折でした。

入院することになったのですが、当時はコロナの影響で私たち家族は一切面会に行けず、日本語が不自由な父は一人きりで看護師さんの世話を受けることになりました。


リハビリも順調で、退院を目前に控えていたある日、突然病院から電話がかかってきたんです。

「お父さんが暴れて、看護師に本を投げつけた。これ以上続くなら強制的に拘束する」と看護師がカンカンになりながら怒っているんです。



--穏やかだったお父様が、なぜそのようなことを。

藤本:
私も違和感を覚え、「父が?本を投げたのですか?」と看護師に確認すると、「そうだ」とおっしゃるのです。

「そうですか、すぐに確認してみます」とすぐに父に電話しました。

「どうして、本なんかを投げたの?」って聞くと父は、消え入りそうなカスカスした声で「水をもらえなかった。水が欲しかったんだ」と言うのです。

「何度も水がほしいって言ったんだ。でも、水を持って来ないばかりか、返ってきた言葉が『あなた中国人?それとも韓国人?』だったから、怒ったんだ。怒って、厚生省からもらった中国語と日本語が書かれた本を投げつけたんだ。そうすれば、自分が日本人だと証明できるから」と父が言ったのです。

父が投げつけた「本」というのは、残留孤児が日本に帰国したとき、厚生省からもらったもので、中国語と日本語が併記された医療用語が書かれてある会話集でした。

「厚生省」と書かれてあることで、自分が政府に認められた日本人であると父は証明したかったのでしょう。



--言葉を失います。喉が渇いたという訴えに対し、なぜ国籍を問う必要があったのでしょうか?

藤本:
私も怒りを抑えながら病院に確認しました。

「水を飲むのに、どこの人であるかは関係ありますか?そもそも医療現場で患者の国籍によって対応や治療方法は変わりますか?」と。最終的に責任者は謝罪しましたが、父は翌日に亡くなりました。

父は骨折で入院したので、本来であれば命に係わる病気ではありませんでした。だから、私たち家族は、父は水をもらえなかったことで殺されたのだと思っています。

「父は日本によって二度殺された」と私は思っています。

1度目は、国の国策によって開拓民として中国へ送られ、終戦の混乱の中でわずか3歳で見知らぬ家庭に引き渡され、過酷な運命を背負わされたこと。

そして2度目は、ようやく祖国である日本に戻れたにもかかわらず、十分な支援もないまま社会の仕組みや偏見によって再び底辺へ追いやられ、運命を翻弄されたことです。



--言葉が非常に重く響きます。

藤本:
自分とは何の関係もない国の政策や一部の権力者が決めたことによって、父をはじめ多くの残留邦人がこれほどまでに人生を狂わされました。

残留孤児一世に限らず、私のような残留孤児二世も「ヤングケアラー」という言葉ができる前から残留孤児一世をケアし、支え、常に一世と共に偏見と戦ってきました。

そういう意味で言えば、残留孤児二世である私も歴史に翻弄された一人なのです。

では、残留孤児三世や四世はどうかというと、彼らの中にもなお、自らのアイデンティティを探し、迷い、苦しむ者が少なくありません。

戦争は何世代をも苦しめ、爪痕を残します。それにもかかわらず、後の政治家たちが「自分たちは戦争を経験していないから知らない」と発言することは、無責任すぎて到底許されることではありません。

もしその理屈が通るのであれば、残留孤児二世である私も戦争を経験していません。

しかし、実際には戦争の結果として生じた苦しみを受け続けてきました。

これは「運が悪かった」では片づけられません。戦争は偶然ではなく、人がつくり出すものだからです。

人を殺すのは、戦争の兵器だけではありません。

その後の無責任な国の対応や、社会の仕組み、そして偏見もまた、人を殺すのです。

私は中国と日本、両方の社会で底辺の暗い闇を経験、または見聞きしてきました。

だからこそ、国籍ではなく「一人の人間として見る」という平等な視点が、骨の髄まで染み付いているのです。

「尊厳」というものは、奪われた者にしか気づけないものなのかもしれません。




遠回りした人生から大学教員へ──次世代の「外交官」を育てる


--両国での深い差別と絶望を経験しながらも、そこからどのようにして現在の大学教員という道へ進まれたのでしょうか

藤本:
決して順風満帆ではありませんでした。

大学職員として働いたり、一般企業に勤めたりと、ずいぶん遠回りをしました。

転機となったのは、大学職員時代にある先生から「なぜここで職員をしているの?」と言われたことです。

その時は意味がわかりませんでしたが、後になって「あなたは英語も中国語もできるのに、なぜここで職員をしているの?もっと上を目指すべきだ」と言われたことに気づきました。

そこから「私に何ができるのか」と考えるようになりました。自分をブラッシュアップする一環として、中国語教師の養成講座に通い、文法を本格的に学び、その時初めて語学として中国語の面白さに気づきました。

そして大学院に進み直したのです。



--社会人からの再スタートだったのですね。

藤本:
はい。大学院にいた頃、以前勤めていた語学学校での指導経験なども買われ、学習院大学、日本大学文理学部、法学部、そして現在の経済学部で教鞭をとる機会に恵まれました。

今では専任の助教という立場をいただいていますが、自分がここまで来られるとは夢にも思っていませんでした。

ただ、社会の底辺で散々叩かれ、悔しい思いをしてきたからこそ、「絶対に負けない、一歩でも上に行くんだ」という雑草のような根性があったと思います。



--授業や課外活動を通じて、学生たちにどのようなことを伝えていきたいですか?

藤本:
私には、学生たちを「外交官」に育てたいという強い思いがあります。

ここでいう外交官とは、国家の外交官という意味だけではありません。

一般の企業に就職する学生たちも、ボトムアップ型の「民間外交官」として活躍してほしいのです。

外交官の役割は、国と国の意見を代弁することだけではありません。

自国の文化を相手国の人々に伝え、理解してもらうことも、外交官にとって重要な仕事の一つです。

そして、これは民間人同士の交流でも同じことです。
互いの文化を伝え、学び、理解し合うことで、問題を解決できることがあります。私はそのことを学生たちに知ってほしいのです。

そのために、チャイナフェスティバルやベトナムフェスティバルといった国際交流の場を提供し、実務の場に学生を連れ出し、実践的な経験を積ませています。

こうした経験は、就職活動で一歩も二歩も上を目指す力となるだけではなく、国籍の異なる人々を柔らかい心で受け入れられる人材を育てることにもつながります。

私自身、若い頃に助言を与え、引き上げてくれる存在がおらず苦労した経験があります。 だからこそ、私は学生たちにとっての道標になりたいのです。




ICA理事としての挑戦と、女性リーダー育成への思い


--学生たちをチャイナフェスティバルなどの国際交流に巻き込む中で、現在の「ICAインターナショナル文化交流協会」での活動にも繋がっていったと伺っています。

藤本:
そうなんです。

一昨年のチャイナフェスティバルで、私はボランティアとして参加していました。ボランティアが終わった後のお疲れ様会で、ICAインターナショナル文化交流協会の会長が声をかけてくださったのです。

会長から「国際交流に興味があるのなら、ICAでもお手伝いしてくれませんか」と言われ、私に何ができるのだろうと驚きました。

帰宅してから協会のホームページを詳しく調べてみると、植樹活動をはじめ、女性や子どもを支援する活動を多くの国々で行っていることが分かりました。

もともと私は、女性の権利向上に強い関心を持っていました。母親になる女性の権利が守られれば、その子どもの権利も守られる。女性が教育を受けることができれば、母親となったときに子どもは母親を通して教育を受けることができる。 そう考えていたからこそ、ぜひ協力したいと思ったのです。



--ここで読者の方に少し説明させていただきますと、ICAインターナショナル文化交流協会は1982年に設立された草の根の国際協力事業を行うNGO・NPOのパイオニアです。2015年に国連でSDGsが採択されるずっと以前から、その理念に基づいて世界約40ヶ国にネットワークを持ち、活動を展開してきました。会長も「世界各地で弱い立場にある子どもや女性を救い、平和構築を目指す」という理念を掲げておられますね。

藤本:
はい、まさにその通りです。

現在私たちが最も力を入れているのが「女性リーダーの育成」です。

ICAは昨年と今年、2年間連続で、国連のCSW(女性の地位向上委員会)の会議に日本の女性たちを引率して参加してきました。

また、国際カンファレンスを開き、平和維持や紛争解決のために活躍している日本人女性リーダーをお招き、講話していただきました。平和維持や紛争解決のプロセスに女性の力は必要不可欠だからです。

しかし、日本国内を見渡すと、まだまだ女性の地位が低すぎます。

国際交流や海外への支援ももちろん大切ですが、私はまず、日本国内の女性たちをエンパワーメントし、彼女らが声を上げられる環境を作りたいのです。

日本の社会状況を理解し、その上で海外と連携できる「真のリーダー」を育てていくことが私の使命だと感じています。



--最後に、先生が考える「多文化共生社会」を実現するための秘訣やメッセージをお願いします。

藤本:
多文化共生を実現するためには、まず「排他主義」を絶対的に捨てることです。

最近、駅前で「欧米人は歓迎するけれど、アジア人はちょっと……」といったダブルスタンダードの排外的な言葉を耳にして、強い怒りを覚えました。

日本は経済的に豊かだった時代から少しずつ後退し、今や「貧しい国」になりつつあります。

経済的な余裕がなくなると、人は他者に責任を押し付け、心が貧しくなってしまいます。

外国人を排除しようとする風潮は、まさにその「心の貧しさ」の表れです。

多文化共生とは、自然にできるものではありません。

「戦略的」に、そして「意識的」に相手を理解しようと努めることから始まります。

自分と異なる文化や背景を持つ人たちに対して、偏見を持たず、まずは理解しようと一歩を踏み出すこと。

その上で、良いところも悪いところもフラットに受け入れる器の大きさが求められています。

私がこれまでの人生で見てきた「底辺」からの景色、そして両国で受けてきた差別の痛みを、次の世代には絶対に味わわせたくありません。

だからこそ、俯瞰的な視野を持ち、国と国、人と人とを繋ぐ「民間の外交官」たちを、これからも全力で育てていきたいと思っています。



--壮絶なご経験を力に変え、次世代への愛情と教育に注ぐ先生の姿勢に胸が熱くなりました。本日は貴重なお話を本当にありがとうございました。




ICA インターナショナル文化交流協会
HP:https://ica-japan.org






(取材・文/劉聡/在日中国人ライター、日本外国特派員協会(FCCJ)会員)

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