
2026年7月、国際交流基金(JF)の日本研究フェローとして来日し、現在、東京大学で交換留学生として研究を進めるインド出身のプルニマ・ナヤーさん。
デリー大学で東アジア史を学び、現在はインド工科大学(IIT)マドラス校の博士課程に在籍しています。
彼女の研究テーマは「戦後日本における栄養と社会的健康(公衆衛生)」。
なぜインドの若手研究者が、日本の戦後史に惹きつけられたのでしょうか。
また、彼女の目に映る「多文化共生社会」のあり方とは?
来日して約1ヶ月のプルニマさんに、ご自身の研究内容から日本の印象、そして今後の目標まで、お話を伺いました。
戦後日本とインドの意外な共通点「食糧難」と「輸入小麦」
--本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介と、現在の研究テーマについて教えていただけますか?
プルニマ・ナヤーさん(以下、プルニマ):
私はインド工科大学(IIT)マドラス校の博士課程で学んでいるプルニマと申します。
私の論文テーマは、「戦後占領下の日本における栄養と社会的健康(公衆衛生)」です。
当時の日本は、ヨーロッパやインドと同じように極端な食糧不足の状況にありました。
-- 日本人の「栄養状況」に着目されたのですね。
プルニマ:
はい。日本もアジア各国も、もともとはお米を主食としていますよね。
しかし1950年代から60年代の冷戦期にかけて、アメリカから日本やインドに「PL480 ※1」というプログラムを通じて、大量の小麦が輸入されました。
学校給食などでも配給され、これがアジアの人々の食の風景を完全に変えてしまったのです。
※1 PL480:アメリカの余剰農産物を海外へ輸出し、食糧援助等を行うための法律
--食生活の変化が、人々の健康にどう影響したかを研究されているのですね。インドと日本の状況には、どのような共通点があるのでしょうか。
プルニマ:
実はインドでも、第二次世界大戦中の1940年代に大飢餓(ベンガル飢餓)がありました。
イギリス軍やヨーロッパの兵士のためにインドの食糧が持ち去られたことが原因のひとつです。(経済学者のアマルティア・センがこの研究でノーベル経済学賞を受賞しています)。
日本でも戦後の混乱期には食べ物がなく、GHQのマッカーサーが日本に来た際、「卵すらない」状況に驚いたというエピソード ※2もあるそうです。
アメリカのような戦勝国には食べ物がありましたが、日本やインドには深刻な食糧難があったのです。
※2 参考:高森直史(2004)『マッカーサーの目玉焼き進駐軍がやって来た!: 戦後「食料事情」よもやま話』光人社
--敗戦国や植民地支配下にあった国の、弱い立場に置かれた人々の「健康」に焦点が当てられているのですね。
プルニマ:
そうです。
歴史を書くとき、勝った側や権力を持つ側からの視点になりがちですが、私は医学や健康の歴史を通じて、国家間の「パワーバランス」を見つめ直したいと思っています。
例えば当時、アメリカの医者が「日本人は病原菌を持っている」とみなし、日本人の頭から直接DDT(殺虫剤)の粉を振りかけたという記録があります。
のちに発がん性などの健康被害が問題になりますが、こうした偏見や力の不均衡も、私の重要な研究対象です。

日本研究のきっかけは「災害」と「公害」
--もともとはデリー大学で歴史を学ばれていたとのことですが、なぜ「日本の戦後史」を研究しようと思ったのでしょうか?
プルニマ:
歴史を学ぶなかで、東アジアの歴史を専門にしました。
日本を研究対象に選んだ実用的な理由としては、日本の資料は日本語でも英語でも豊富に揃っているため、もし日本に行けなくてもインドにいながら研究が続けられると考えたからです。
ですが、それ以上に大きな出会いがありました。
--どのような出会いですか?
プルニマ:
3年前、2023年の関東大震災100年の年に、当時、国際基督教大学(ICU)で教鞭をとられていたJanet Borland教授が参加するワークショップに参加しました。
当時、教授は「子どもたちが関東大震災をどう描いたか」という研究の書籍(Earthquake Children: Building Resilience from the Ruins of Tokyo)を発表したのですが、これに興味深さと研究の意義を感じ、私自身も「災害」や「公害」に興味を持つようになりました。
そこから日本における公害の一つである「水俣病」について調べ始め、次第に「病気」や「社会的健康」へと研究テーマが絞られていきました。
来日1ヶ月。日本の「ルール」と「追求する姿勢」
--今回、国際交流基金(JF)のフェローとして来日し、初めて長期滞在(1年間)をされるとのことですが、実際に日本で生活してみて印象はいかがですか?
プルニマ:
これまでは教科書や論文で読んだ「アカデミックな日本」のイメージしかありませんでした。
実際に来日し生活してみて、驚いたのは、日本人の「一つのことをとことん追求する姿勢」です。
例えば、お寿司を作るために、何世代にもわたって技術を磨き、パーフェクトを目指す。
こうした小さなことをコツコツとやり遂げる姿勢は、研究者として私自身も見習いたいと感じています。
--日常生活で驚いたことはありますか?
プルニマ:
ゴミの分別ですね(笑)。
「ペットボトルはキャップを外す」「燃えるゴミは今日だけ」といったルールが徹底されています。
インドなら、少し頼めば燃えるゴミの日じゃなくても持っていってくれたりするのですが、日本人は決まったルールをしっかり守ります。
これはとても良いところだと思いました。

多文化共生とは「好奇心」を持つこと
--続いて当メディアのテーマでもある「多文化共生」について伺います。異なる文化を持つ人々が共に生きる社会について、プルニマさんはどうお考えですか?
プルニマ:
歴史を「国単位(ナショナルヒストリー)」だけで考えると、見えなくなるものがあります。
私の出身である南インドのケララ州には、昔から中国人がよく訪れていたため、当たり前のように「中華鍋(ウォック)」や「中国のジャガイモ」が日常の食卓に根付いています。
また、日本の「弁財天」はインドの女神「サラスヴァティ」と同じです。シ
シルクロードもそうですが、文化やアイデアは国境を越えて旅をし、交じり合ってきたのです。
--自然な形で文化が入り混じっているのですね。
プルニマ:
はい。
「これはインドだけのもの」「日本だけのもの」と分けるのではなく、いろんな文化が自然に混ざり合っていることを知るのが大切です。
日本でもこれから外国人が増えていくと思いますが、お互いが「相手の文化を少しでも知ろうとする姿勢」を持つことが大事だと思います。
--具体的にはどのような姿勢でしょうか?
プルニマ:
「好奇心(Curiosity)」ですね。
初めて出会う人に対しても、「この人にはどんな物語があるのだろう」「この人から何を学べるだろう」と心を開くこと(Openness)。
イメージや偏見だけで判断せず、想像力を持って相手と向き合うことが、多文化共生の第一歩だと思います。
インドも言語や文化が多様でコンフリクト(対立)もありますが、根本には「Unity in Diversity(多様性のなかの統一)」という考え方があります。
今後の目標:雪の北海道へ、そして将来は大学教授に
--最後に、この1年間の日本での目標や、今後のキャリアについての展望を教えてください!
プルニマ:
今は国立国会図書館で資料を読み込んだり、日本の研究者や先生方と交流してネットワーキングを広げたりしています。
たくさんの意見を聞いて研究を深めたいです。
今後のキャリアとしては、将来は大学の教授になりたいと考えています。
場所は日本でもインドでも、どこでも構いません。ずっと研究を続けていきたいですね。
--研究以外で、日本でやってみたいことはありますか?
プルニマ:
旅行ですね!
日本をよく理解するためには、各地を旅することも必要です。
特に北海道に行ってみたいです。実はまだ雪を見たことがなくて...。
大量に積もった雪を見てみたいですし、機会があればスキーやスノーボードなどのウインタースポーツにも挑戦してみたいです。
--雪の北海道、ぜひ楽しんでください! 本日は貴重なお話をありがとうございました。

・国際交流基金
HP:https://www.jpf.go.jp/
【HYAKUYOU編集部】