
東京・足立区で生まれ育ち、高校時代に多様な文化と出会ったことをきっかけに、中国の大学へ進学。現在は紹興酒の会社で働き、日中の懸け橋を目指しながら、日本で暮らす外国人のサポートにも携わる鈴木恵梨香さん。
日本人の父とフィリピン人の母を持ち、家の中では日本語とタガログ語が飛び交う家庭で育った彼女は、時に「ハーフ」への偏見やアイデンティティの葛藤と向き合いながらも、自らのルーツに誇りを持ち、自分らしい道を切り拓いてきました。
「無理に理解し合わなくてもいい。ただ、一緒の時間を楽しく過ごすことが大切」─そんな言葉に込められた彼女の想いと、文化の「違い」を力に変えて歩んできた軌跡を伺いました。
−−まずは簡単に自己紹介をお願いします。
生まれは東京で、父が日本人、母がフィリピン人です。
記憶はないんですけど、生後半年から2歳まではフィリピンにいたらしいです。
それから日本に戻って、高校までは日本で育ちました。
その後、中国の大学に進学して、いまは中国の紹興酒に関わる仕事をしています。
−−中国に関心を持った思ったきっかけは何ですか?
高校が「都立国際高校」というところで、外国にルーツを持ってる生徒も多い環境だったんです。
中国系の子も多くて、最初に付き合った彼氏も中国人だったのが最初のきっかけですね。彼を通じて中国に興味を持って、友達も増えて、どんどん関心が深まっていきました。
−−なるほど。じゃあ高校が大きな転機だったんですね。
そうですね。渋谷の近くの高校だったんで、私が育った足立区の新田っていう、小さな地域から一気に世界が広がった感じです。
多様なバックグラウンドを持つ友達と出会って、自分のルーツにも誇りを持てるようになったのはそこからかもしれません。
環境はすごい良かったです。
−−海外の大学に進学することを決めた理由は何だったんでしょうか?
実はその頃、絶賛反抗期で(笑)。
親元を離れたかったっていうのが正直な理由です。
本当は英語圏に行きたかったんですけど、学費が高すぎて断念。でも中国なら学費も手頃だし、友達も受験するって聞いて、「あれ、いいんじゃない?」って。それで両親を説得して進学しました。
同級生には、自分のルーツのある現地の大学に入学する子も多かったので、海外に進学することに、あまり抵抗がなかったかもしれません。

−−フィリピンという選択肢はなかったんですか?
フィリピンにも年に一回帰ってましたけど、当時は「全く知らない場所」に行きたかったんです。
だから言葉も文化も知らない中国に惹かれました。冒険心ですよね。
−−反抗期のきっかけはなんだったんでしょうか?
思い当たる節があるとすれば、父方のおじいちゃんと同居してて、お父さんもおじいちゃんも日本人なので、家族の中で異文化のちょっとしたズレからくる喧嘩とかも多くて。 それが嫌だったっていうのはあるかもしれません。今は仲良しなんですが。
−−例えば、その異文化のズレは当時どんなものがあったんですか?
日本人って綺麗好きなところがあると思いますが、フィリピンは結構大雑把で、なんかちょっと汚いものをキッチンに流しちゃうとか。
一緒に生活していたら、どんどんそういうのが気になっちゃうわけです。
あとは「音」とか。
9歳上のお姉ちゃんがいるんですが、小さい頃、フィリピンで育ってきたから、アイデンティティはフィリピン人寄りです。
なので、お母さんとお姉ちゃんは、夜中に、音楽大音量で、ノリノリで踊ったりしてて、おじいちゃんが「うるさい!」みたいな(笑)
−−そういった異文化の違いは、どういう風に折り合いがついたんですかね。
うーん、折り合いがついたというか、なんだろう、みんな年取って丸くなったっていうのはあると思います。
私自身に関しては、留学に行ったことによって、逆に関係は良くなったかなと思っています。
適度な距離感で、ストレスが溜まることはなくなりましたし、別に両親と仲が悪かったわけではないので。
お姉ちゃんも仕事し始めて、お父さんとお母さんも、夫婦っていう時間を楽しめるようになったのかもしれません。
−−家の中ではどういう言語で会話していたんでしょうか?
お父さんとお母さんは日本語、お姉ちゃんとお母さんはタガログ語で会話してます。
私はタガログ語は部分的にはわかりますが、喋れるわけではないので、家族みんなでの会話は基本的に日本語です。
ただ、気づいたら、こっちはタガログ語、あっちは日本語みたいな、結構交錯しちゃいますね。
お父さんもタガログ語はわからないので、母と姉がタガログ語を喋ってるときは、2人で待ってるみたいな(笑)
−−これまで「ハーフ」としてのアイデンティティに悩んだ時期はありましたか?
小さい頃はありました。
見た目だけで「アメリカ人?」とか言われて、「アメリカ関係ないんだけどな」って思ってましたし、日本の「ザ・家庭」に憧れたこともありました。
その点では、お弁当とかも地味に嫌だったかもしれません(笑)
お母さんは日本で飲食店を経営していて、料理は得意なんですが、お弁当はフィリピン・スタイルで。日本のお弁当みたいに繊細な可愛い感じとかじゃなかったので、みんなの前で開くときとか、少し恥ずかしかったです。
−−その悩みが解消されたのは高校に入ってからですか?
そうですね。多様性を誇りに思ってる友達がたくさんいて、私も自分のルーツを肯定できるようになりました。
とはいえ、地元でのワイワイも楽しいですし、私にとっては地元も居心地がいい環境です。
−−これまでに外国ルーツとして扱われて、嫌な経験はありましたか?
子どもの頃に「フィリピン人だから明るいでしょ?」って言われるのは嫌でしたね。
今もそういう決めつけは苦手です。
社会人になってからも、「ハーフだから漢字苦手でしょ」とか言ってくる人もいて、それもモヤっとしました。
「〇〇だから」っていう言い方には、やっぱり抵抗があります。
私を知らない人にそう言われるのが特に嫌なんです。
−−年に一回フィリピンに行っているそうですが、フィリピンの親族との交流で、感じる日本との違いはありますか?
ありますね。例えば年末年始。日本ではおせち食べて静かに過ごすけど、フィリピンではダンスパーティー。
音楽がかかって、みんなで踊って、お酒飲んで、眠くなった人から勝手に帰っていく(笑)
その自由な雰囲気がすごく好きです。

−−ちなみに鈴木さんはおせちは…?
食べたことないかも(笑)
うちは正月にローストチキンと赤ワインが定番でした。おじいちゃんがいた頃はもう少し日本の風習もあったけど、父もフィリピン好きで、徐々にうちのスタイルになった感じです。
−−「ハーフ」としての背景を持ってて良かったなと思う瞬間はありますか?
良かったのは、嫌だったことと一緒かもしれませんが、逃げ道を作れるっていうか。
ちょっと日本で行き詰まった時に、フィリピンの陽気さが自分を助けてくれる時があります。
逆にフィリピンはルーズすぎるし、ずっと動物の森みたいな暮らしぶりをしてるから、あっちにいる時は逆に日本の自分を思い出すというか(笑)
なんていうか、自分の中でお母さん的な考え方、お父さん的な考え方みたいな部分があって、それをうまく使い分けができていると思います。
−−お父さんとお母さんの考え方は結構ちがうんですか?
結構価値観が違います。
お母さんは「商売で一発当てるべ!」みたいな感じ。
お父さんは、会社でコツコツ、真面目に勤勉にみたいなタイプです。
すごい価値観の合わない二人なんですが、私はどっちの価値観に触れることもできてよかったと思っています。
−−そんな両親は中国留学に関しては、どういう反応でしたか?
実は、両親はあんまり中国のことが好きじゃなくて、猛反対されました。
私は高校生活の影響もあって、国や人種で嫌うという考え方が好きじゃなかったので、両親がそういう考えを持ってるのがすごい嫌で。
それに対する反発もあって、結構無理矢理留学した感じです。
ただ、最終的には両親も「自分のやりたいことだから」と言って、許してくれました。
−−鈴木さん自身の意志を貫いたんですね!中国ではどんなことを勉強されたんですか?
上海で半年間、中国語を勉強して、北京外国語大学の経済学部に入学しました。
あんまり記憶はないですが、経済の勉強をしてましたね(笑)
−−中国で様々な経験をされたと思いますが、留学経験が、改めてご自身のアイデンティティに与える影響などはありましたか?
高校時代は、自分もよく知る日本という国で、外国にルーツを持つ友達と関わり合うことが多かったですが、中国に行ったら、逆に自分がマイノリティになって。
全く言語が通じない外国に行って、同じく留学している韓国人やヨーロッパ系の人たちのような日本と全く関係ない人たちと関わり合うことが増えたのは、いい経験になりましたね。

−−また一歩広い世界に踏み出したわけですね。
そうですね。それと、留学した当時反抗期だったと言いましたが、外国に来て、お母さんの苦労がわかりました。
お母さんは日本に来て、商売やって、子育てやって、言語も別に語学学校とかに行ったわけじゃなくて、自分で見て聞いて覚えたみたいな。
それを20歳ぐらいの時に日本に来てやっていたと考えたら、すごいことだなと思って。
大人になったっていうのもありますが、反抗期が終わるきっかけをもらえました。
−−知らない国で、自分でビジネスやって、子育てもして、本当にすごいですよね。
お母さんは、4人兄弟の長女で。
フィリピンの実家が貧しかったので、日本に来て稼いで、それを仕送りしてみたいな。
もう年なので、店は畳んで、今は日本とフィリピン行き来しながら、過ごしてます。
−−そんな多様なバックボーンのある鈴木さんですが、鈴木さんの考える「共生」についてもお聞きしていいですか?
私は「無理に理解しあわなくても、まず共に存在すること」が大事だと思ってます。
バックグラウンドが違えば価値観も違って当然だけど、それを否定せずに、「まあそういう人もいるよね」って思えるかどうか。
特に日本では、見た目が少し違うと「外国人枠」に入れられるけど、私は日本育ちだし、日本語が一番得意なんです。
でも、「陽気だよね、フィリピン人だから」とか、「漢字苦手でしょ、ハーフだし」みたいな決めつけがまだまだ多い。そういう考え方は、私が思う共生とは少し違う気がします。決めつけるのではなく、その人自身をちゃんと見て向き合えば、もっとみんなが自分らしくいられるようになると思います。
共生って、お互いに「無理しない」ことなんじゃないかな。違っててもOK、むしろ違ってるからこそその違いを楽しめる、そういう感覚を大事にしたいですね。
多種多様な人と同じ空間で、同じ時間を楽しく過ごしているときに、私は「共生」を感じます。

−−今後の将来のビジョンなどもあれば教えてください!
今は紹興酒の会社で勤務しながら、副業として業務委託の仕事もやっています。
会社勤めでコツコツやれっていうお父さんの考え方と、自分の好きなことを突き詰めて働きなさいっていうお母さんの考え方が自分の中では2つ存在していて。
今の会社の目標は紹興酒を日本で広めることですが、私は紹興酒にこだわってるわけじゃなくて、紹興酒というのはツールの一つだと思ってます。
好きになってくれる人が増えたら、それをきっかけに中国のことを知ってくれる人も増えますし。
お酒っていうコミュニケーション円滑ツールも大好きなので、日本と中国の架け橋になりたいと思いながら日々業務をやってます。
副業でやってるのが、外国人のビザのサポートや日本で起業する外国人の書類作成といった業務のアシスタントです。外国人相手の日常サポート業務ですね。
母親が日本で仕事する中で苦労していた姿も見ていたので、やりがいがあります。
将来的には、自分ができることの幅を広げて、日本に住む外国人たちが、日本ライフをもっと楽しんでもらえるようにしたいですね。
−−鈴木さんと同じようなバックグラウンドを持つ方々向けに最後にメッセージはありますか?
そうですね。昔の自分に伝えるとしたら、自分の生まれ持ったバックグラウンドに誇りを持ってほしいと伝えると思います。
全く違う環境で育って、価値観も違う両親が出会ってくれたおかげで、今の自分がいる。それは本当に奇跡だと思うから。
別に自分たちが特別ってわけじゃないけど、日本人としては個性的な部分もあると思うので、その個性を大事にして、自分の好きなことに思いきり挑戦してほしいなと思います。

【HYAKUYOU編集部】