福井県立大学名誉教授・凌星光氏
「激動の時代を生き抜き、なお筆を執る─歴史の証人、日中の架け橋」

2025.12.04
(凌星光氏)


92歳にして、なお現役で執筆を続ける福井県立大学名誉教授凌星光(りょう・せいこう)氏

以下、氏の経歴です。

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1933年、東京・深川に生まれ、幼少期を静岡県で過ごす。
1946年に浜松一中へ入学(のち浜松北高等学校へ改称)
1952年に一橋大学に進学する。翌年7月には興安丸にて中国に帰国し、同年9月に上海財経学院国民経済学部に入学。
1956年から2年間の休学を経て、1959年には天津の日本問題研究機関に勤務する。
1966年、文化大革命の嵐が吹き荒れ、1969年には芦台五七学校で労働鍛錬を経験する。
1971年、河北大学にて外国学部日本語科を創設、翌年、田中角栄首相訪中団の接待に参加。
1973年には北京大学日本語学科に出向し、「京都大学人文科学訪中団」の接待にも携わる。
1973年から74年にかけて河北大学で日本語科第一期生の教育に従事し、日本語ポケット辞典(袖珍日汉辞典)を出版。
1974年から78年まで現代国際関係研究所で日本経済の研究に従事する。
1978年から1993年にかけては、中国社会科学院世界経済政治研究所で日本経済組組長、先進国(発達国家)研究室副主任、主任を歴任。
1982年には日本のアジア経済研究所に客員研究員として滞在。
1983年からは日中経済知識交流会にたびたび参加、同年には北京市政治協商会議委員に就任。
1989年より日本に拠点を移し、明治学院大学、金沢大学で教鞭を執った後、1992年から2003年まで福井県立大学経済学部教授を務める。
2007年から2017年にかけて日中科学技術文化センター理事長を務め、学術と文化交流の発展に尽力。

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激動の戦中戦後を日本と中国の両地で歩み、時に試練にさらされながらも、知的交流を絶やすことなく積み重ねてきた凌星光氏。
その歩みはまさに「歴史の証人」であり、「日中の架け橋」としての知識人の生涯です。
今回のインタビューでは、その波瀾万丈の人生を振り返りながら、日中関係の現状と未来を語っていただいた。




−−凌先生、本日はお忙しいところ誠にありがとうございます。先生は日本で生まれ育ち、その後中国に帰国され、研究者として、また教育者として、長年にわたり日中関係の最前線に立ってこられました。本日は、先生の歩んでこられた激動の人生、そしてその視点から見た現在の日中関係、未来への提言まで、幅広くお話を伺えればと思います。まずは先生の自己紹介からお願いできますでしょうか。

凌星光氏(以下、凌):私は現在92歳になりますが、これまでの人生は、大きく五段階に分けることができると考えています。
第一段階は、日本で生まれ育った時期です。具体的には1933年2月15日に東京の深川で生まれ、1953年に中国へ帰国するまでの20年間です。



−−先生は東京で生まれ、静岡で育ったと伺っております。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。

凌:ええ。この第一段階の日本での生活は、日本の軍国主義が台頭する時代から始まり、多感な時期に戦争を体験しました。両親は1920年代に、生活に困窮して浙江省の青田県という山奥から日本へやってきました。関東大震災後で労働力が不足していた時期だったのです。父は行商で稼ぎ、母と結婚してからは主に中国人労働者を相手にした飲食店を営んでいました。

しかし、1931年の満州事変で日中関係が悪化すると、中国人労働者が皆帰国してしまい、商売が立ち行かなくなりました。それで東京から静岡県の二俣という場所に移り、間もなくして日清紡績工場のある北浜村貴布祢に移住し、飲食店と反物の商売を始めたのです。私は東京で生まれましたが、物心ついた頃から育ったのはこの貴布祢です。



−−戦時中のご経験は、先生のアイデンティティ形成に大きな影響を与えたのではないでしょうか。

凌:その通りです。浜松市の郊外に住んでいましたが、B29による空襲で浜松市が焼け野原になるのを目の当たりにしました。
戦争中は中国人ということで、ずいぶんいじめられましたね。しかし、1945年に日本が戦争に負けてからは、状況が一変しました。



−−立場が逆転した、と。

凌:ええ。私たちは戦勝国国民になったわけです。当時は国民党政府が中国の代表でしたから、そのバッジをつけて「俺は中国人だ」と見せ付けて、無料で電車に乗っても誰も文句は言いませんでした。
ただ、その時に「戦勝国だ」と威張るような態度を取ってしまったことを、後になって「あれは良くなかった」と反省しました。
人の感情を害するような態度は、どんな場合であれ取るべきではないからです。



−−その後、浜松北高から一橋大学へと進学されます。学生時代は学生運動にも参加されていたそうですね。

凌:はい。高校時代には学生自治会の執行委員を務めましたし、一橋大学に入学した1952年には、5月1日の「血のメーデー事件」に全学連の一員として参加しました。
当時、日本の学生運動は社会主義革命を目指しており、日本共産党も力を持っていました。
私は新聞で中国共産党が勝利していく過程を見ていましたし、エドガー・スノーの「中国の赤い星」といった本を読んで、その偉大さを感じていたこともあり、日本共産党と中国共産党の両方を支持していました。



−−中国人である先生が日本の学生運動に参加することに、違和感のようなものはなかったのでしょうか。

凌:いえ、全くありませんでした。むしろ「おお、中国人か」と感心されるくらいでしたよ。当時は日本にいる中国人も少なく、ましてや一橋大学に合格するような中国人はほとんどいませんでしたから、皆同じ仲間として受け入れてくれました。



−−そして1953年、大学を中退して中国へ帰国されます。大きな決断だったと思いますが、なぜその道を選ばれたのですか。

凌:当時、新しい中国では、海外にいる留学生やインテリ層に対し、祖国の建設に参加するよう呼びかけていました。
私は一橋大学で統計学を学ぼうとしていたのですが、「ソビエトの統計理論」という本を読んで、社会主義の統計学と資本主義の統計学は本質的に違うのだと知りました。
「日本で学んだ知識が祖国で役に立たないのであれば、一日も早く中国に帰って、社会主義建設に必要な学問を身につけるべきだ」と強く思ったのです。尤も、今から見ると、これは浅はかな見方でしたが。
そして1953年7月、興安丸という船に乗って、初めて祖国の土を踏みました。これが私の人生の第一段階の終わりです。



−−そこから第二段階が始まるのですね。

凌:ええ。帰国してからは、上海財経学院の国民経済計画学部に改めて入学しました。
これはソ連の国家計画委員会「ゴスプラン」を模倣したもので、社会主義の経済計画を担う幹部になることを目指していました。
私は日本語が堪能だったため、大学卒業後の1959年9月、天津の日本問題研究機関にも籍を置くことになりました。
そこで日本の経済や日中関係を研究する日々が始まりました。しかし、1966年に文化大革命が始まると、私の人生は再び大きく揺れ動きます。



−−文化大革命では、スパイの嫌疑をかけられたと伺いました。大変なご経験でしたね。

凌:私の家庭は、戦後、父の商才もあって華僑としてはかなり裕福でした。
ですから、中国に帰国した際に、自分の家庭出身を「資本家」と正直に書いたのです。後で知ったのですが、それは国内での階級成分画定であって、海外にいた場合は自己申告する必要はなかったそうです。
それが文化大革命の時に問題視され、「ブルジョア出身のお前が、なぜプロレタリアの国である中国にわざわざ帰ってきたのか。何か特別な任務を帯びてきたのではないか」と嫌疑をかけられたのです。もちろん根拠など何もないのですが、自白を迫られ、周囲の人々も私から離れていきました。



−−想像を絶するような状況ですが、どのように乗り越えられたのですか。

凌:結局、何も出てこなかったので問題なしとされました。耐えきれずに自ら命を絶つ人もいましたが、私はもともと前向きに物事を考える性格でしたからね。
その後、「芦台五七学校」という、労働を通じて思想改造する場所に送られ、一年半ほどそこで過ごしました。
そこでの真面目な働きぶりが評価されたのでしょうか、転機が訪れたのは1971年です。
キッシンジャーが秘密裏に訪中し、米中関係が動くと、周恩来首相が「米中関係が改善すれば、日中関係も動くだろう。今のうちに日本語のできる人材を育てるため、各地の大学に日本語科を設けよ」と指示を出したのです。
当時、日本語教師は圧倒的に不足しており、私のように日本で育ち、かつ経歴に汚点がない人間は貴重な存在でした。日本語に長じた人の多くは旧満州国又は汪精衛政権に努めたことのあり、政治的信頼に欠ける面があったからです。
それで、私に河北大学で日本語科を創設せよと、白羽の矢が立ったわけです。



−−まさに歴史の転換点に立ち会われたのですね。

凌:1972年9月に田中角栄首相が訪中した際には、私も日本語のできるスタッフの一人として、各地から選ばれた数十人と共に接待グループに選ばれました。
私たちの主な任務は、同行してきた日本人新聞記者の通訳でした。この頃までが、私の人生の第二段階、つまり中国に帰国してから改革開放が始まるまでの時期です。
そして第三段階は、文化大革命が終わり、鄧小平が改革開放政策を打ち出してから、1993年60歳で定年退職するまでです。

私の日本研究の知識が、まさに時代に必要とされるようになりました。
現代国際関係研究所を経て、中国社会科学院の世界経済政治研究所に移り、日本経済組の組長、さらには先進国研究室の副主任、主任を歴任しました。



−−60歳で定年退職された後、再び日本に戻ってこられた。それが第四段階の始りということでしょうか。

凌:ええ。中国では60歳で定年ですが、幸いなことに日本で働く機会をいただきました。先ず金沢大学経済学部教授を二年間勤めた後、福井県立大学教授となり10年間、中国経済、特に改革開放の状況について日本の学生たちに教えました。
福井県立大学の定年が70歳でしたので、それ以降は日中科学技術文化センターの理事長をさらに10年間務めました。

正式にリタイアしたのは2017年で80代半ばですね。
その後も大陸・台湾の統一を促進する団体の会長を5年ほど務めましたから、89歳くらいまで第一線で活動していました。今は第五段階で有意義な余生を送るよう努力しています。



−−90歳近くまで現役でいらしたとは、本当に驚きです。その精神力、そして健康の秘訣は何なのでしょうか。

凌:長生きの秘訣は、心のバランスを保つことです。
どんな困難な状況に陥っても、心は常に穏やかさを保つ。これは医学的にも証明されていることです。
私の北高時代の同級生は約300人いましたが、今、心身ともに元気なのはわずか4人です。その中でも、研究者として今も文章を書き続けているのは私だけですから、これは少し自慢できるかもしれませんね。



−−ありがとうございます。先生の壮大な人生の歩みが、いかに日中関係の歴史と深く結びついているかがよく分かりました。では、その視点から、現在の中国と日本の関係についてもお話を伺いたいと思います。過去と比較して、現状をどのようにご覧になっていますか。

凌:日中関係は、実に複雑な要因が絡み合っています。
1972年の国交正常化以降、特に80年代は非常に良好な関係でした。
しかし、今世紀に入ってから悪化し始め、現在の状況は決して良いとは言えません。改革開放後の最初の20年間と、その後の20年間とでは、全く様相が異なります。

この複雑さの根源には、三つの大きな要因があると考えています。
一つ目は、中国国内の要因です。国共内戦が今なお終結しておらず、それが台湾問題として日中関係に影を落としています。
二つ目は、日本の国内要因です。戦争に負けたにもかかわらず、軍国主義の象徴であった天皇制が維持されたことで、ドイツのように徹底した戦後処理がなされませんでした。
そして三つ目が、アメリカの要因です。アメリカが、日本をアジアにおける反共産主義の砦にしようと考えたため、日本の戦後処理が不徹底なままにされてしまったのです。
この三つの要因が複雑に絡み合い、現在の難しい状況を生み出しているのです。



−−80年代、90年代の良好な関係は、どのような要因によってもたらされたのでしょうか。

凌:それは、米ソ冷戦という大きな国際情勢が背景にありました。
中国は文化大革命の混乱で国際的に孤立していましたが、そこから抜け出す突破口として、まずアメリカとの関係改善があります。ニクソン大統領の訪中です。これに連動して日中国交正常化が実現し、西側陣営との関係を築いたのです。

そして、改革開放政策が始まると、日本も中国も互いに利益を見出しました。
中国は日本の高度経済成長の経験に学ぼうとし、日本は巨大な中国市場を取り込めると考え、非常に前向きに協力してくれました。「4つの政治文書」を遵守するという前提のもと、両国関係はうまくいったのです。



−−しかし、その良好な関係は長くは続きませんでした。悪化の要因はどこにあったのでしょうか。

凌:最大の要因は、ソ連の崩壊です。
アメリカにとってソ連という共通の敵がいなくなったことで、次のライバルとして中国が意識されるようになりました。
当初、アメリカは中国が改革開放を進めれば、いずれ西側のような民主国家になるだろうと期待していました。
しかし、1989年の天安門事件を機に、アメリカの中国に対する見方は大きく変わり、次第に敵視するようになっていきました。



−−中国国内でも、天安門事件をきっかけに政治改革が停滞してしまったのでしょうか。

凌:はい。当時、鄧小平のリーダーシップの下、胡耀邦総書記が責任者となり、西側の民主主義制度を研究し、中国式の民主主義を模索する動きがありました。
党の指導性を確保しつつも、民意がより反映されるような差額選挙制度などが検討され実行されました。
しかし、天安門事件と、その後のソ連崩壊という衝撃的な出来事によって、党は政治改革に対して極めて慎重になり、守りの姿勢に入ってしまいました。

結果として、政治的な透明性が失われていった面は否めません。
一方で、日本側も「失われた30年」と言われる長期の経済停滞によって自信を喪失しました。
かつてのように中国を経済的に取り込むどころか、逆に巨大化した中国に飲み込まれてしまうのではないか、という恐怖感を抱くようになったのです。
こうした日中双方の変化と、アメリカの対中政策の転換が、関係悪化の複合的な原因となっています。



−−お話を伺っていると、重要な局面では常にアメリカの存在が大きいと感じます。

凌:その通りです。日本は安全保障をアメリカに依存していますから、その意向に左右されやすい。多くの日本人は、アメリカが世界で一番強い国だと思っています。

しかし、その構図も今、大きく変わりつつあります。中国の国力が向上し、世界が多極化していく中で、日本も新たな立ち位置を模索すべき時期に来ているのです。
まさに今が、日中関係にとっても大きな転換点だと言えるでしょう。



−−最近、高市政権が誕生し、日中関係は急激に悪化していますが、「転換点」という視点からどう説明されるでしょうか。

凌:高市首相が台湾有事への関与を宣言し、日中間の四つの政治文書を実質的に反故にしたからです。中国は激怒し、撤回を求めていますが、高市首相は撤回しないでしょう。というのは「転換点」にあることを認識していなし、またそれを認めたくないからです。

何故か?歴史上二回ほど中国を「凌駕」したことがあります。一回目は明治維新で近代化に成功し、中国を侵略するほどにまで発展した。
二回目は戦後の高度成長で世界第二の経済大国になり中国の改革開放の「手本」とされました。これによって日本の中国に対する優越感は大変強固なものとなりました。そのため、中国が大きな成果を収めたことを素直に認めたくない心理が強く働いているように思います。

体制の違いももう一つの要因です。日本は米国はじめ西側諸国と連携して対中抑止力を強化して中国の体制変革を図ろうとしています。これは明らかに幻想にすぎず、徐々に不可能であるという認識を高めていくでしょう。この点では石破政権は割合よかったのですが、高市政権はその逆です。
ここ10数年、日本社会の右傾化が進み、それが高市政権誕生の土台になっています。従って、今後10年間、日中間に様々のやり取りがあり、局部的衝突が起こることも否定できません。



−−そうしますと、日中関係は更に悪化すると言うことでしょうか。

凌:必ずしもそうとは限りません。最悪の事態の発生も念頭におくべきだということです。
平和的に「転換点」にあることを日本に認識させるためには、中国側が二つのことをやる必要がある思います。

一つは日本の自衛隊に中国の軍事演習を見せ、中国の実力を分からせて米日共同の対中抑止力強化が如何に無駄であることを悟らせることです。
もう一つは中国が覇権を求めないこと、日中平和友好条約第二条の反覇権条項を厳守することを日本側に辛抱強く説明し、納得させることです。それでも効果がなく、お互いに挑発し合うようになれば、局部的衝突が起こりうるということです。その場合、米国が仲介に出てくる可能性が高いと思います。



−−日米安保条約による米国の立場からして、それは考えにくいのではないでしょうか。

凌:いいえ、米国はランド・シンクタンクなどが中国の実力を認め、米中衝突を避けるよう政策調整するよう提案しています。
日本はそれを是とせず、対中強硬姿勢をとるよう米国に働きかけているのが現実です。
過去の歴史から見ても、日本は非現実的夢想を抱く傾向があり、高市内閣が高支持率をバックに暴走する可能性があります。
一番理想的なのは平和的に相互理解を深め四つの政治文書に回帰することですが、部分的衝突を通して始めて正常化に向かう可能性もあるということです。

何れにしても、日中関係の先行きについて私は楽観的で、1980年代に中国の改革開放に貢献した日本の友人たちの功績が自由に語られる雰囲気が10年以内にやってくると確信しています。日本は独立自主の対米対中バランス外交を展開し、アジアと世界の平和に貢献する国家になると思います。



−−次に、共生という観点から、在日中国人と日本人の関係についてお伺いします。近年、様々な報道の影響もあり、お互いにネガティブなイメージを持つ人も増えているように感じますが、先生はどのようにお考えですか。

凌:私は基本的に、在日中国人と日本人はうまく共生していると思います。
確かに、一部のメディアが中国に関するネガティブなニュースをことさらに取り上げ、「中国人は犯罪ばかりしている」といった偏見を助長している面はあります。
そうした報道を鵜呑みにしてしまう人がいるのも事実でしょう。
しかし、そうした報道に対して「それは事実とは違う」と、冷静な情報を発信する人々も大勢います。
そして何より、実際の生活の場で、個人対個人として接する場合には、ほとんどの日本人はメディアの報道に影響されることなく、一人の人間として誠実に付き合ってくれます。
ですから、私はそれほど心配はしていません。必要なのは、誤解を解くための丁寧な説明を尽くし、より多くの人が客観的な事実に基づいて意見を表明できる環境を作ることです。



−−先生が、日本で中国人と日本人が共生しやすいと感じる理由は何でしょうか。

凌:まず第一に、日本が法治国家であるという点が挙げられます。
合法的な在留資格を持つ人々は、その権利が法的に保障されています。これは軍国主義の時代でさえ、一定のルールがありました。特に戦後は人権を重んじる社会になり、この法の下の安定が、共生の大きな基盤となっています。

第二に、人間性を重んじる文化があることです。イデオロギーや国の制度が違っても、基本的には人間対人間として、お互いを尊重し、親切に対応してくれる人が多い。私自身、戦時中に素晴らしい先生に出会った経験があります。
私が中国人だと知った上で、中学受験の際に特別に目をかけてくださったのです。もちろん、どこにでも意地悪な人はいますが、一般的には皆、人間味のある対応をしてくれます。



−−一方で、共生を難しくする側面もあるかと思います。

凌:ええ。一つは、先ほども触れた国共内戦の歴史です。
かつては在日中国人社会も国民党系と共産党系に分かれていました。現在では、台湾独立を支持するかどうかといった形で、その対立の構図が残っています。
これは中国側の内部の問題ですが、結果として日本社会における共生にも影響を及ぼしています。

もう一つ、文化的な側面での相互理解も重要です。
日本の方々は、中国文化に対して深い尊敬の念を抱いています。例えば、天皇の即位に関する儀式などは、多くが唐の時代の文化を受け継いだもので、中国本土では失われてしまった貴重な文化遺産です。

他方で、明治維新以降の「脱亜入欧」の成功体験からくる、西欧文化への強い憧れも持っています。
我々中国人は、日本社会にこの二つの側面が共存していることを理解し、尊重する必要があります。
また、日本人は非常に礼儀作法を重んじ、自己中心的な態度を嫌います。中国は文化大革命などで伝統的な礼儀作法が一度断絶し、人々の慣習も大きく変わりました。

こうした文化的な違いが、時に摩擦の原因になることもあります。お互いの歴史と文化の背景を学び、理解を深める努力が不可欠です。



−−先生ご自身は、日本人と付き合う上でどのようなことを心がけてこられましたか。

凌:私は研究者という立場上、自分の政治的な立場、つまり中国共産党を支持するという立場は常に明確にしてきました。
ただし、相手の政治的な立場も尊重し、感情的にならず、理性的に話し合うよう努めています。
そして、国籍がどうであれ、人間としての基本的な態度は共通しているはずです。誠実さ、勤勉さ、謙虚な姿勢。こうした美徳を通じて、相手と共鳴できるよう努力しています。
国家間の問題になると、誰しも感情的になりやすいものです。もし自分がそうした過ちを犯したと気づけば素直に謝りますし、相手がそうなった場合は、できるだけ寛大に対応するようにしています。



−−言葉の問題も大きいですね。

凌:ええ。私は日本で生まれ育ったので、よく日本人と間違われます。
しかし、子供の頃は、日本語があまり上手ではない両親と一緒に歩くのが恥ずかしいと感じたことがありました。自分が中国人だと分かってしまうからです。
後になって、それは両親に対して本当に申し訳ないことだったと深く反省しました。私たちは、言葉が上手か下手か、あるいは学歴が高いか低いかといった表面的なことで、相手を見下してしまいがちです。そうした偏見に囚われず、一人の人間として向き合うことが何よりも大切です。



−−では最後に、日中両国の関係がより良くなるために、そして先生ご自身の今後の目標についてお聞かせください。

凌:一つは、中国側が透明性を高める努力をすることが大切だと思います。
日本のメディアによる間違った報道や、それによって生まれる誤解に対して、政府がやりにくいのであれば、民間の専門家などが丁寧に説明し、事実を伝えていく必要があります。私は、そのための日本の研究者と中国の研究者をつなぐ橋渡しの役割を担うことができます。



−−それは先生が提唱されている「第二の改革開放」という考え方とも関わってくるのでしょうか?

凌:そうですね。これまでの改革開放は、国内の指令的計画経済を政府主導型市場経済へと転換させる、内向きのものでした。私の提唱する「第二の改革開放」は、世界第二位の経済大国となった中国が、国際社会とどう向き合い、貢献していくかという、外向きのものです。
それは、アメリカが主導してきた国際経済秩序を、より公平なものへと改革していくことに繋がるものでもあります。

中国は「人類運命共同体」という理念を掲げていますが、それを実現するためには、まず自らが透明性を高め、グローバルサウスばかりでなく、先進国からも信頼を得ることが不可欠です。



−−先生ご自身の今後の目標についてもお聞かせいただけますか。

凌:個人的な目標はいくつかあります。一つは、今、生成AIの学習に力を入れていまして、この新しい技術を使って、自分の一生をまとめ、各時代に書き残してきた論文や提言を体系的に整理したいと考えています。
そしてもう一つは、人生100年時代と言われますが、ただ長生きするだけでなく、「健康寿命100年」を自ら実践し、その実績を残すことで、人類の発展にささやかながら貢献したいと思っています。

そして、より大きな視点で見れば、中国は今、経済力、科学技術力、軍事力において、世界のトップに立とうとしています。
これまでの、やられたらやり返すという「受動的な姿勢」から、国際社会のルール形成などを主導していく「能動的な姿勢」へ、つまり「守りから攻め」へと転換すべき時が来ています。
台湾問題に終止符を打ち、核兵器禁止条約のような国際的な課題においても、中国がリーダーシップを発揮していく。そのための発想の転換を、私はこれからも訴え続けていきたいと考えています。




以下、凌星光氏が執筆した書籍

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(取材・文/劉聰/在日中国人ライター)

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