
元Jリーガーで、現在は作詞家、音楽家、そして社会貢献活動と、多岐にわたるフィールドで活躍する矢野マイケルさん。
日本人の父とガーナ人の母を持つ矢野さんは、その穏やかな語り口からは想像もつかないほど壮絶な幼少期を過ごしてきました。
ガーナでの武装強盗団との遭遇、来日後の児童相談所や養護施設での生活、そしてハングリー精神を武器に掴み取ったJリーガーの座と海外挑戦──。
前編となる今回は、映画のようにドラマティックな半生と、イタリアで遭遇した陸上界のレジェンド、ベン・ジョンソン氏との驚きのエピソードまで、矢野さんの原点となる「サバイバルと挑戦」の物語を伺います。
「自分を誇示しない」──養護施設で学んだ日本人の心意気
−−本日はよろしくお願いします!多彩な経歴を持つ矢野さんが初対面の方と会う時に、どのように自己紹介されるのか気になります。
矢野マイケルさん(以下、矢野):そうですね、シンプルに「矢野マイケルと申します」と言います。
大体、「日本語うまいですね」って言われるので、「父親が日本人で、母親がガーナ人のハーフの矢野マイケルと申します」って説明します。
−−シンプルですね!矢野さんは過去の経歴も含めて肩書きがたくさんありますよね。
矢野:正直言うと、そういう部分は自分からはあまり言わなくて、周りからも「自分のプロモーションが下手だ」って言われるんですよ。
昔の話ですが、養護施設の時にサッカー始めて、施設に帰ったら、みんなが「マイケル今日はどうだった?」って聞いてくるんです。
自分も聞かれるのが嬉しかったんで、「今日は10点も決めたよ」とか言うと、みんな「すげえ!マイケル!」ってなって。
でも、養護施設の先生に呼ばれて、「ガーナではどうか知らないけど、日本では自分がどれだけすごくても、あまりそういう風に言わない方がいいんだよ」と言われて。
それが日本人の心意気なんだなと思ったのを覚えてます。
営業の場合や聞かれない限り、最後まで言わないこともありますね。
−−そうなんですね。元Jリーガーの肩書きや音楽家としての活動については何も言わないこともあると。
矢野:聞かれないと言わないですね。
元サッカー選手やプロのユースチームにいた選手が、すごいでかいことを言ってるのを聞いたことがあるんで。
そういう人間になりたくないなっていうのもあります。
プロじゃなかったのにプロだって言って、自慢してる人もいたので、自分の自信のなさをアピールしてるのかなと思っちゃったりとか。
あと、「誰々を知ってる」っていうのが嫌いで。
周りでも、「芸能人を知ってる」って言う人がいっぱいいるんですけど、大体自分が成し遂げてない人が周りの人の名前を使うんだなと思っていて。
これまで自分は実力主義でやってきたんで、他人が努力して勝ち取った名誉を、軽々しく使うのは好きじゃないです。

−−いいですね。例えば、これから長く付き合うかもしれない方に、「今は何されてるんですか?」と聞かれたら、その時は何と答えますか?
矢野:そうですね。その場合は「音楽を中心に、通訳も含めて、色々やってます」と答えるかもしれません。
音楽活動はもちろん、これまでに大使館関係の通訳もやりましたし、叔父さんがガーナ人のモデル事務所を持っているので、そこの通訳をすることもあります。
他にも、楽曲を作りたい仲間がいた時にアドバイスしたり、英語を教えたりもします。
自分がハーフとして生まれたことを活かして、世の中のために何かやりたいなという思いがあります。
父の仕事でガーナへ。治安悪化の中で直面した「命の危険」
−−ぜひ、来日のきっかけなどをお聞きしてもよろしいですか?
矢野:親父は日本人で、戦前の陸軍大将・宇垣一成氏がひいおじいちゃんです。
親父は横須賀高校、早稲田大学を卒業して、竹中工務店に就職しました。
竹中工務店のハワイ支社にいた時に、社長の奥さんと子どもたちをデパートへ連れて行って、英語で買い物を手伝ったそうです。
次の日に社長から「矢野君、君は英語がすごいらしいじゃないか。ガーナで亡くなった野口英世の記念館を現地に建てる予定があるから、ガーナに行ってくれ」と言われて、ガーナに行くことになりました。
親父はそこで母親(ガーナ人)と出会って、記念館ができる前に僕ができちゃったっていう(笑)
後から弟も二人生まれました。
当時のガーナは治安が悪くて、とても危険でした。
内戦やクーデターの影響で、ナイジェリアとか他の国から出稼ぎ労働者も来てたくらいで、不景気だったんです。
学校で先生が、僕たちハーフに向かって、「君たちはヨーロッパ人やアジア人とのハーフで、裕福だと思われて狙われやすいから、気をつけなさいね」っていうんです。
「こないだ〇〇の家に強盗が来て、家族全員殺されちゃったよ」って。
とはいえ、どう気をつけていいか分からないですよね。
−−めちゃくちゃ怖いですね。
矢野:ある日の午後9時くらいのことです。
近所は、あまり車も通らない場所で普段静かなんですが、7匹飼ってた番犬が急に一斉に吠えだして。
なんだろうと思ってたら、重いトラックの音が聞こえてきて、夢かなと思ったら、急に発砲音が聞こえて。
弟と一緒に2段ベッドで寝てたんですよ、自分が上で弟が下です。
親父が電気つけて部屋に入ってきて。
手にショットガンとピストルを持ってて、自分と弟をショットガンと一緒にベッドの一番下に隠して。
自分は、ベッドの下で泣いている弟の口をふさぎながら、ずっと「バレないように」って祈ってました。
親父はブラジル製のピストルで、どんどん窓から入ってくる強盗を撃とうとしたんです。けど、親父のピストルは壊れてて、弾が出ませんでした。
そうしたら、親父は強盗の前で、なぜか目を瞑って、地面にあぐらをかいたんです。
「俺を殺してもいいけど、妻と子供たちには手を出すな。お金は全部あっちの部屋にある」って言って。
当時、銀行にお金を預けるのも信用できない時代だったんで、家にお金があることを多分強盗たちは知ってたんですよ。
それから、家に侵入した強盗の数がだんだん増えていって、自分と弟もバレて、他の部屋に連れて行かれて。
自分たちはリビングに連れて行かれて、別の部屋から話し合う声と、発砲音も聞こえてきて。
後から聞いた話だと、親父を殺す、殺さないで揉めて、仲間割れになって5人くらい死んだらしいです。
強盗たちは多分、殺される寸前なのに、落ち着いている人の姿を見たことがなかったんでしょうね。
日本人からするとアフリカ人は身体能力が高くて強いと思ってますけど、意外とメンタルは弱いとこもあるんですよ。
銃を突きつけられたら、「やめてくれ、やめてくれ」って言いながら殺されるケースがほとんどです。
−−銃を突きつけられるというのは想像もできないほど壮絶な経験ですね。。。
矢野:自分に関して言えば、強盗がビデオデッキを持って行こうとした時に「やめろ」って言っちゃって。
当時、親父がドラえもん、忍者ハットリくん、オバケのQ太郎とかのビデオを日本から持ってきていて、ビデオデッキは自分たちが知らない世界を観れる唯一の物だったんで、これだけはやめてくれっていう感覚だったんでしょうね。
「やめろ」って言った後、見上げたら、銃を持った一番でかいやつから「お前死にたいか」って言われて。
人間って、死にそうになった時に結構意味がわからないこと言うんですよ。
自分も恐怖のあまりに、そのビデオデッキの使い方を説明し始めちゃって。
「ここを入れて、ここを押して」みたいに。
結局、お金も物も全部持っていかれました。
後日、お母さんが地元の人から警察と強盗はグルだって噂を聞いて。
親父は「そんなこと日本じゃありえない、ふざけんな」って言って、「もう借金してでも日本に帰る」って。
最初に自分ら兄弟と親父で日本に来て、後からお母さんが来ました。
日本での試練。児童相談所と養護施設での「孤独な夜」
−−それが来日のきっかけだったんですね。
矢野:8歳の時ですね。
最初、逗子の親父の実家にいたんですが、やっぱり日本はすごい国だと思いましたよ。
「なんて綺麗な国だ」って。空港のどこでも寝れるじゃんみたいな。
ただ、日本の料理に関しては、当初は合わなくて、あまり食べれなかったんですけど。
親父の実家に数ヶ月いて、その後練馬区のインターナショナルスクールに通って、親戚がいる関係で1年間アメリカにも行きました。
アメリカの後は、親父の仕事の都合で、今度はフィリピンに行くことになって、半年ぐらいフィリピンの学校に行って。
日本に帰ってきてからは、徐々にお母さんが日本の生活にストレスを感じるようになっていったんです。
忙しい時代だったんで、親父は自分たちが起きる前に仕事に行って、寝てから帰ってくるっていう生活をしてました。
お母さんはそういう生活についていけなくて。
ある時に親父が自分らを連れて家を出て、ホテルで一緒に住むようになって。
−−子供ながらにホテル暮らしですか。
矢野:そうですね。
ホテル暮らしがしばらく続いたんですけど、そろそろ自分らを学校に行かせないといけないってことで、児童相談所に入れられることになりました。
児童相談所の施設はきつかったですね。日本語はできないし、日本食も食べれないんで。
ご飯の時間、食べ終わるまで、帰れないんですよ。
午後6時か7時くらいから食事が始まって、みんな食べ終わって帰っていくんだけど、自分と弟たちは最終的に9時、10時ぐらいまでいて。
児童相談所の先生が途中から木刀持って、怒鳴るんです。
先生が背中を向けた時に、弟たちの分は自分が食べたんですが、いざ自分の分を食べるってなったら、ただでさえ食えないもので。
結局「もういいから寝ろ」って言われて、部屋に戻って。
部屋で寝てる弟たちの顔見て、安心すると同時に、「なんで俺たちはこんな思いしてんだ」って。
あんなことがガーナであって日本に来て、やっと家族で幸せになれると思ったらこれかと。
毎晩のようにそれが続いて、弟たちにバレないように枕に顔を押し付けて泣いてました。
まあ、多分それが当時のやり方だったんでしょう。今よりもっと厳しかったと思うんで。
−−過酷ですね…。今は環境が変わっていることを祈るばかりです。
矢野:その後、3ヶ月ぐらいして、養護施設に行くことになりました。
学校が併設された養護施設だったんですけど、綺麗なところだなと思ったのを覚えてます。
最初に学校を見学してたら、みんなやっぱり自分たちのことが気になりますよね、見た目が日本人じゃないんで。「うわ外人だ」って。
紙を投げてくるやつもいれば、ちょっとした騒ぎにもなって、「これは明日から大変だぞ」と思ったのをよく覚えています。
初日のホームルームが終わって、先生が出て行った後に、弟たちは大丈夫かと思って様子を見に行こうとしたら、他の生徒から「おい外人、国に帰れ」とか「アメリカに帰れ」って言われて。自分としては、「アメリカ人じゃねえし」みたいな。
弟たちを守るための闘いと、サッカー部への入部
−−海外ルーツの子供が少なかった時代であることも影響していると思いますが、幼心にとって過酷な環境ですね。
矢野:でも、自分はガーナの時からずっと運動神経が良くて、すごいヤンチャだったんで、とにかく喧嘩は自信があったんですよね。
なので片っ端から喧嘩しました。こっちをぶっ飛ばして、次はあっちみたいな(笑)
ただ、自分から喧嘩を仕掛けるタイプではなかったです。
とはいえ、外に出れば暴走族とかも多い時代で、目があったら、自分も目を逸らさないタイプだったので、片っ端から喧嘩になってました。
授業中に暴走族が入ってきて「おい矢野!出てこいや!」みたいなこともありましたね。
12歳頃からそんな感じでした。
でも自分がそんな風に振る舞ってなのは、弟たちがいたからでもあります。
いつか自分が卒業した時に、施設に残った弟たちがいじめられないように、ちょっと周りをビビらしとかないとっていう思いもありました。
−−それだけ怖いお兄さんがいたら、いじめられないでしょうね(笑)。サッカーとの出会いもその頃ですよね。
矢野:当時、中学校にはサッカー部とバレー部しかなかったんですよ。
自分はガーナにいた時からサッカーが好きで。
当時はサッカーと言っても、ボールは靴下に新聞紙を丸めて入れたようなものでしたが。
色んな先生たちからペレやマラドーナみたいな昔の選手のビデオを渡されて、「サッカーやれやれ」って。
先生たちも、自分が身体能力が高いのは知ってたんで。
サッカー部では1年生からレギュラーでした。
当時はちょうどJリーグができた時期で、「俺はここ(Jリーグ)でサッカーするんだ」と思ったのを覚えています。
プロになるイメージもしてましたし、みんなが寝てから、夜中にグラウンドに行って練習してました。
喧嘩してるとチームメイトが怖がって、口聞いてくれないんですよ。練習の時にシュート打とうと思ったら、キーパーも逃げるみたいな。
このままの環境だと自分はプロになれないと思ったんで、とりあえず一人で、ジャンプの練習とか、ゴールバーに頭が当たるくらいずっとやってました。
シュート力とジャンプ力、個人技は本当に、「これ以上のやついたら連れてこいよ」っていうぐらいまで、がむしゃらにやりました。
ある時、たまたま親戚にサッカーのコメンテーターがいて、自分の噂を聞いて、練習を見に来てくれて。「君は絶対プロになれる」って言われたんです。
その人はヨーロッパにコネクションがあったので、「ドイツのヴェルダー・ブレーメンのユースチームにテストを受けに行ってみないか」って言ってくれて。
中学生でドイツへ。そして掴み取ったJリーガーの座
−−中学でいきなりドイツに行くことになったんですね!
矢野:ドイツに着いて、ブレーメンのチーム練習を見に行ったら、遠くからだと小さく見える選手が、だんだん近づいていくと、「あれ?あいつらめっちゃデカいじゃん」と思うくらい大きくて。
親父からも「お前大丈夫か」って言われたくらいです。
次の日に練習行って、1対1で勝ったり負けたりしたんですが、日本とはやっぱり「当たり」が違いました。
みんなアフリカ、ヨーロッパとか色んなところから来て、合格したようなやつしかいないようなチームだったんで。
2メートルくらいの身長の選手をドリブルで抜いた後に、いきなりボコって口の辺りを蹴られて。「なんだろう」と思ったら、そいつが膝を押さえながら「ごめんな」みたいなことを言ってるんです。
「え?俺が抜いて、こいつが反転して走り出した足がここに当たるんだ」と思って。「これは日本と同じノリでいたら怪我するな」と思いましたね。
その日、監督が美味しいイタリアンを奢ってくれたんですが、自分は日本では感じなかったくやしさもあって、ずっと泣いてて、メシも食わず、氷だけオーダーして口元を冷やして。
次の日からは、「絶対あいつに復讐してやる」っていう気持ちでやりました。
その意気込みもあってか、最終的には受かったんですよ。
−−ヨーロッパのユースチームに合格するのはスケールが大きいですね。ユースでの生活はどうだったんですか?
矢野:日本に1回帰って、またドイツ行ってみたいな感じです。それを2、3回繰り返しました。
試合では後半20分で4点入れたりとか、結構活躍もできて。
そんな生活を続けて、1年ぐらい経って、卒業式に間に合うように日本に帰ってきて、Jリーグのチームを4つ受けることになりました。
結果的に4チームとも受かりました。清水エスパルス、ヴィッセル神戸、名古屋グランパス、サンフレッチェ広島ですね。
さぁ、どこに入ろうかと思ったときに、当時、清水エスパルスのスポンサーがJALで、それを実現したのが、自分の代理人だったらしく、エスパルスに入ってくれると顔が立つって言われて。
当時、本当は東京で家族の近くにいたいっていう気持ちもあったんです。
けど、自分は養護施設にいたこともあって、自分の意見がなかなか言えない子供だったんですよ。
怒られたら、立ち向かえるタイプだけど、優しい人には、とことん優しいみたいな。
言われたら、「はい」としか言えなかったような子供でした。
結局、膝が悪かったんで、エスパルス側が手術代を出してくれるっていう条件で入団して、静岡に行きました。
色々あって移籍することは決めてたので、1年後に、今度はジェフ市原のテストを受けて、当時のハンス・オフト監督に気に入ってもらえて、合格しました。

「ポテンシャルを活かしきれなかった」──プロ時代の葛藤
−−移籍を決めて、それをすぐに実現できるのすごいですね。
矢野:でも、当時自分は養護施設を出たばかりで、世間知らずでしたし、敬語もできなかったくらいです。
離れて暮らしてることもあって、親とも揉めたり。
だから、メンタル的には全くプロじゃなかったですね。
チーム練習が終わったら、すぐ家に帰ってました。
それまで養護施設で、自分のプライベートの時間がなかったんで、家に帰って好きなゲームができる、好きなもの食べれるとか、好きなもの飲めるっていうのが楽しくて。
食べ物もコンビニとかお菓子ばっかりでした。
そういう生活だったから、自分の本来持ってるポテンシャルを活かしきれなかった面もあると思います。
−−それまでの生活を考えると、自分の好きにできる時間ができると嬉しくなりますよね。
矢野:その後、チームを転々として、最後はサガン鳥栖で、最終的に親父の借金を親父と一緒に返せて。
だから、サッカーを辞めようと思ってたんですが、友達から、「マイケル、お前ペルージャ受けろよ」って言われたんです。
サッカー辞めるって伝えたんですけど、「ダメ元でいいから」って説得されて、イタリアに行くことになりました。
イタリアで再会した「ベン・ジョンソン」と、怪しすぎるビタミン剤
−−すごい縁ですね(笑)!
矢野:ただ、ペルージャとの交渉は色々あって、上手くいきませんでした。
交渉がイタリア滞在の1日目で、滞在予定は2週間だったので、残りの日数どうしようかと思って。
イタリアに知り合い探して、手帳を見てたら、「あ、そういえば昔、ベン・ジョンソンさんが自分の試合を見に来て、『今すぐサッカー辞めて陸上やれ。俺は今イタリアのナポリでフィジカルを教えてるから、イタリア来たら、連絡くれ』って言ってたな」っていうのを思い出して。
−−ここでいきなり陸上界のレジェンド登場ですか!?
矢野:そうなんです。それで、公衆電話でベン・ジョンソンさんに電話しました。
「元気か」って言われて。
現状を説明したら、「今からバスでナポリに来い。ナポリに着いたらタクシーで俺のホテルに来い。タクシーは10台ぐらい聞いて、一番安いやつに乗れ、あいつらズルいから」って言われて。
言う通りにして、ナポリに着いて、タクシーに乗ってホテルに行ったら、本当にベン・ジョンソンさんがいて。
「あ、ハメられてたんじゃないんだ」と思いましたね(笑)
−−急に会いに行って、会ってくれるってことは、ベン・ジョンソンさんの中でも矢野さんの存在は忘れられなかったんでしょうね。
矢野:ベン・ジョンソンさんとは1週間くらい一緒に練習したのかな。
自分は中学生の時に100m10秒8ぐらいで、Jリーガー時代が10秒6。
ベン・ジョンソンさんと練習してる時に、数日間で10秒1くらいまで早くなりました。
まあ、ベン・ジョンソンさんも走りながら、一緒にやってるんで、正確な数字ではないですけど。
ベン・ジョンソンさんは「お前と俺はスタイルが似てるから、絶対いい記録出るから」って言ってくれて。
例の疑惑についても聞いてみたんですよ。
「色々あったじゃないですか、ドーピングとか」って。
そうしたら、ベン・ジョンソンさんは、「あれはアメリカがスポンサーの大会だったから、カール・ルイスが優勝しないといけなかったんだ。俺はハメられたんだ」みたいなこと言ってて。
また、「その後、俺はすぐ病院に行って検査して、無罪の証拠も取った。その証拠を自分以外に5人に渡してるから」とも言うんです。
自分が「なんで5人の人にも渡すんですか?」って聞くと、「誰が殺されても証明できるように」とか言ってて。
聞きながら、すごいディープな話だなと思いましたね。
自分は「俺、ベン・ジョンソンさんの汚名を晴らすためにも頑張るんで、よろしくお願いします」って言って。
ただ、しばらく一緒に練習した後、自分は時差ボケもあったし、ちょっと疲れが溜まってて、体調が良くなかったんです。
そうしたら、ベン・ジョンソンさんが、「マイケル、心配すんなよ、いいビタミン剤があるから」とか言い出して。
「マジか」と思いました。
「本当にビタミン剤なら最初から出してるだろ」とか考えると怖くなってきちゃって(笑)
そういう感じで、結局日本に帰ってきました。
−−疑惑はまさに「藪の中」ですね(笑)
(【後編】:「格闘技への挑戦、ヒット曲の作詞、そして母はガーナの女王に。人生で見つけた『多文化共生』のリアルと次世代へ繋ぐバトン」に続きます)
矢野マイケルさん
Instagram:https://www.instagram.com/yanomichael/?hl=ja
【HYAKUYOU編集部】